天照山光明寺。浄土宗大本山、記主禅師開山
光明寺の概要
浄土宗寺院の光明寺は、天照山蓮華院と号し、浄土宗大本山寺院です。光明寺は、第四代執権北条経時(蓮華寺殿安楽大禅定門)が、浄土宗第三祖然阿良忠記主禅師大和尚(弘安10年1287年寂)を開山に迎えて佐助ヶ谷に仁治元年(1240)蓮華寺と号して創建、寛元元年(1243)当地へ移転の上、光明寺と改めたといいます。第九世祐崇上人の代には後土御門院の帰依を受けた他、十夜念佛法要を始め当寺を中興、徳川家康の関東入国後の天正19年(1591)には寺領100石の御朱印状を拝領、浄土宗の関東十八檀林の第一位の格式を誇り、現在は浄土宗の大本山となっています。また、開山の然阿良忠上人は宝治2年に後嵯峨上皇の帰依を受け、沒後に伏見天皇から記主禅師の謚号を贈られた高僧です。鎌倉三十三観音霊場第18番、鎌倉二十四地蔵尊霊場第22番です。
山号 | 天照山 |
---|---|
院号 | 蓮華院 |
寺号 | 光明寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 鎌倉市材木座6-17-19 |
宗派 | 浄土宗 |
縁日 | 十夜大法要10月12-15日 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
光明寺の縁起
光明寺は、第四代執権北条経時(蓮華寺殿安楽大禅定門)が、浄土宗第三祖然阿良忠記主禅師大和尚(弘安10年1287年寂)を開山に迎えて佐助ヶ谷に仁治元年(1240)蓮華寺と号して創建、寛元元年(1243)当地へ移転の上、光明寺と改めたといいます。第九世祐崇上人の代には後土御門院の帰依を受けた他、十夜念佛法要を始め当寺を中興、徳川家康の関東入国後の天正19年(1591)には寺領100石の御朱印状を拝領、浄土宗の関東十八檀林の第一位の格式を誇り、現在は浄土宗の大本山となっています。また、開山の然阿良忠上人は宝治2年に後嵯峨上皇の帰依を受け、沒後に伏見天皇から記主禅師の謚号を贈られた高僧です。
鎌倉市掲示による光明寺の縁起
材木座に所在する光明寺は、江戸時代には浄土宗関東十八檀林の第一位として格付けされた格式の高い寺院です。開山は記主禅師然阿良忠、開基は鎌倉幕府の第四代執権北条経時で、仁治元年(一二四〇)鎌倉に入った良忠のために、経時が佐助ガ谷に寺を建てて蓮華寺と名づけ、それが寛元元年(一二四三)に現在地に移り光明寺と改められたと伝えます。
元禄十一年(一六九八)建立の本堂は、国指定重要文化財。また、弘化四年(一八四七)建立の山門は県指定重要文化財。ことに本堂は、鎌倉で現存する近世仏堂のうちでも最大規模を誇ります。当寺は今なお、建長寺、円覚寺と並ぶ壮大な伽藍を構成しています。
十月十二日から十五日の間に行われる「十夜法要」の行事は今でも、夜市がたち大勢の人で賑わいます。(鎌倉市掲示より)
新編相模国風土記稿による光明寺の縁起
(材木座村)光明寺
天照山蓮華院と號す、浄土宗、關東總本山と稱し十八檀林の第一位にして六派の本寺なり、仁治元年北條武蔵守經時佐介谷に於て浄刹を創立し蓮華寺と名つく時に僧良忠(注釈)
悟眞寺に在り經時延て開山初祖とし、武州足立郡箕田の地を寄附して寺領とす(注釈)
寛元元年今の地に移轉して堂宇を修復す斯て經時夢兆に感じて光明寺と改む(注釈)
四年閏四月經時卒し(注釈)
嗣子相模守時賴相承て崇信す、寶治二年良忠洛の尼院にあり、後嵯峨上皇の戒師となり、香衣幷に上人號を賜ふ(注釈)
建長元年鎌倉に歸、時賴由良の地を割て寄附せり、(建長元年歸鎌倉、副師時賴、割由良寄光明寺、諸士崇嚮聘招、)
忠弘安十年七月六日寂す(注釈)
永仁元年勅謚ありて記主禅師と號す(注釈)
忠、先師聖光の筆記を削定し述作頗多し(注釈)
建武二年九月當寺造營の爲修理田一町を寄附あり(注釈)
貞治二年二月足利基氏上總國湯井號觀應三年の例に任せ、寄附ある旨證状を授與す(注釈)
其後祐崇永正六年十一月八日寂す、當寺の住職たり、是を中興の祖とす(注釈)
明應四年崇禁宮に入て彌陀經を講じて旨に協ふ(明應四年、唱導部下、遂入禁宮講彌陀經、奉説協旨、)
此時講經の宣旨及彌陀經を賜ふ(寺傳曰、後土御門院祐崇御歸依ありて講經の宣旨幷彌陀經を賜ふ)勅して慈覺大師傳来の明聲を飌せしむ、崇衆僧を率て彌陀經及念佛を誦唱し、香衣並に上人號を敕許あり(注釈)
崇奏して殿修の式を永世光明寺に行ふ、今に十夜念佛と唱るもの茲に濫觴すと云ふ(注釈)
享保五年七月三浦郡南北の内、一向宗門の徒悉當寺の檀越たるべき由下知あり(注釈)
天正十九年當所門前永十貫文の地を賜ひ延寶三年六月三浦郡柏原にて寺領百石の御朱印を賜ふ
△本堂。開山の像を置く、
△客殿。三尊の彌陀を安ず(中尊は運慶作餘は作人知れず、)
△方丈。彌陀を安ず(運慶作にて肚裏に運慶が骨を収むと云ふ)
【寺寶】
△後土御門帝綸旨二通(一は勅願所、一は常紫衣の勅許)△伏見帝宸翰額一面△天照太神像一軀(長三寸許、應神帝御作と云ふ、)△阿彌陀畫像四幅(一幅は後陽成帝宸筆三幅は慧心筆、)△同繍像一幅(中将姫製造、)△法然上人畫像(自筆、鏡の影と云ふ、)△記主禅師畫像一幅(自筆、鏡の影と云ふ、)△十九羅漢畫像一幅(唐隆信忠筆と云ふ)△南岳大師袈裟一頂(竹布にて九條なり、法然當初叡山に在て、台家の碩學たり、故に叡空より是を相傳ふと云ふ、)△阿彌陀經一部(後土御門帝より、中興祐崇に給ふ所と云ふ、)△浄土三部經一函(法然筆、但し小徑は不足にて、萬無上人紺紙金泥にて、書副たりと云ふ)△稱讃浄土經一巻(中将姫筆)△形像經一巻(善導筆、)△六字名號一幅(弘法筆、長九間、廣九尺許あり、是を佐野の名號と云ふ、初房州佐野金胎寺、什物なりしとなり、弘法佐野の砂場にてこれを書したる故に、佐野の名號の名ありと云ふ)△阿彌陀名號一幅(法然筆なり、脇書に西光往生、保延辛酉三月十九日、當承安四年甲午父三十三回忌故、源空書之とあり)△名號一幅(紀侯搆教筆)△浄土曼荼羅一幅(慧心笛、當麻の曼荼羅を寫せり)△同縁起二巻(祠書は後京極良經筆、畫は土佐将監光興筆なり、)△善導大師繪詞傳(詞書は世尊寺行俊、繪は土佐光茂、表題は加納探幽と云ふ、)△開山記主禅師傳一冊(沙門道光撰とあり、道光諱は了慧、望西樓と號す、良忠の弟子なり、)△聖光墨蹟△記主禅師墨蹟△一枚起請一幅(尊鎮法親王筆)△十八通一冊(了譽の自筆、)△色紙十四枚、押繪十二枚(色紙は近衛殿及秀賴の筆と云ふ、)△紫石硯一面(唐玄宗の松蔭の硯と稱す、相傳て平重衡受戒の時、法然に與ふ、法然是を聖光に譲り、聖光又記主に譲ると云へど、背に永享の年號あり、是法然記主の時代にあらず、是非詳ならず、)△古文書三通(一は貞治年基氏が寺領の寄附状、一は享禄五年一向宗の門徒改宗の下知状、一は天正十八年豊太閤の制札)
△祈禱堂
△彌陀堂
△二尊堂。善導大師(自作、衣に金泥にて、彌陀經を書たり、文字皆消て、今は生の字見ゆ、猶善堂の條、合わせ見るべし、)辨財天(江島奥院の分身と云ふ、昔江島辨財天の像、或時暴風吹来て、此の如する事三度なり、因て寺僧御御闝を取に、當寺に止まるべき由なり、故に爰安ずといへり、)及び聖徳太子の像を置く、
△經堂
△千體地蔵堂
△善導堂。總門内松葉林中にり、金銅の像を安ず【鎌倉志】には是を善導塚と擧げ、古傳を引て昔善導の像僧と化し唐船に乗て筑紫に渡来し、時に鎮西善導寺の開山聖光夢に善導来朝して筥崎にあり、来り迎へよと告つと見しかばて彼地に至る果して像あり、其地に一宇を建立す、其落ち善導寺に移す、後良忠鎮西にて光より其像を附屬せらる忠靈像に向て吾是より關東の諸國に化を施さんと思ふ、其間何國にても有縁の地に蹟を留め給へと云て海中に投ず、其後忠鎌倉に至り佐介谷に居す、由比の澳に光明赫奕たり、漁父奇とする處靈像忽然として由比濱に着岸す、忠因て一宇を建立して彼像を安す、光明寺是なり、漂泊の地を善導塚と名づくと載せたれど此靈像の爲に忠當寺を創建せしと云ふは寺傳と齟齬せり、さて舶来せしは今二尊堂に安ずる像にて是なるは其模像なりとそ、
△神明宮。八幡春日を合祀す、域内鎮護の祠なり
△秋葉社
△九頭權現社
△蔵王窟。後阜にあり、
△開山塔。山上にあり
△内藤家祠堂。阿彌陀(定朝作、)如意輪等の像を安い、内藤備後守、同氏播磨守先世代々の靈牌を置く、
△鐘樓。正保四年鑄造の鐘を掛く(按ずるに當寺に、竹園山法泉寺の鐘ありしが、今は失へりと云ふ、)
△學寮 五宇、
△記主水。寺の山麓にあり(開山の加持水なりと云ふ、)
△總門(昔佐介谷に在し時は、經時の弟時賴、浄刹の額を掲げしと云ふ今其額を傳へず、)
△山門。天照山の額を扁す(後花園帝の宸筆なり、其圖什寶の條に出す、)(新編相模国風土記稿より)
境内諸堂宇について
善導大師像
中国唐時代に活躍された浄土教の高僧で、宗祖法然上人はこの善導大師の教えに導かれて浄土宗を開かれました。
当寺の御開山良忠上人も厚く大師を敬い鎌倉時代から深く心の結びつきを持たれていました。
良忠上人はこの地に光明寺を開かれて善導像を作り、大師を顕彰されました。
この銅像は寛文(一六六三年)当時第四十一代玄譽知鑑上人の建立です。(大本山光明寺掲示より)
開山堂
当寺開山良忠上人(記主禅師)の尊像および歴代の法主(住職)を祀る御堂です。
開山の良忠上人は、浄土宗の第三祖(宗祖法然上人から三代目)として関東にお念仏の教えを弘められました。
上人は島根県那賀郡に生まれ各地で修業と修学を積み正嘉二年(一二五八)の頃鎌倉に入り、幕府第四代執権北条経時公の帰依を受けて、この寺を開かれました。学徳を備えた高僧で、すぐれた僧侶を育てました。
また多くの書物を著し、今日の浄土宗の基盤を為るという大きな働きをされ、この功績を称えて、没後、伏見天皇から記主禅師の謚号を贈られました。
毎年七月六日のご命日には開山忌法要を勤めています。(大本山光明寺掲示より)
繁栄稲荷大明神
当寺開山良忠上人は、この地に当寺を開くまでしばらく佐介ヶ谷に住まわれていました。
この時上人は子狐を助けたことがありました。すると夢に親狐が現れ、お礼とともに薬種袋を残していったということです。
鎌倉に悪病が流行した折、上人はこの時の夢のお告げに従って、薬種を蒔くと、三日の内に成長し、この薬草を服すると薬効顕れ、病魔はたちまちに退散したということです。
のちに稲荷大明神として当寺に勧請し病魔退散、豊漁満般、家業繁栄を祈念しています。(大本山光明寺掲示より)
光明寺所蔵の文化財
- 光明寺本堂(国指定重要文化財)
- 光明寺山門(県指定重要文化財)
光明寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿