高養寺。浪子不動、不如帰の碑
高養寺の概要
高野山真言宗寺院の高養寺は、白滝山三寶院と号します。高養寺の創建年代等は不詳ながら、当寺本尊の不動明王像は弘法大師が唐へ留学した際に授与された不動尊像で、唐からの帰朝に際しても浪を鎮めてくれたと伝えられ、当地に安置され小瀧不動、白瀧不動、御瀧不動、浪切不動などと称されていました。徳冨蘆花が逗子にも滞在していたことから、小説「不如帰」の舞台が当地近辺ではないかと噂となり、不動尊もその小説の主人公「浪子」から浪子不動とも称されるようになったといいます。昭和28年(1953)葉山慶増院を移建、葉山ゆかりの政治家政治家高橋是清・犬養毅から寺号を高養寺と号して一寺となっています。
山号 | 白滝山 |
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院号 | 三寶院 |
寺号 | 高養寺 |
住所 | 逗子市新宿5-5-5 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
高養寺の縁起
高養寺の創建年代等は不詳ながら、当寺本尊の不動明王像は弘法大師が唐へ留学した際に授与された不動尊像で、唐からの帰朝に際しても浪を鎮めてくれたと伝えられ、当地に安置され小瀧不動、白瀧不動、御瀧不動、浪切不動などと称されていました。徳冨蘆花が逗子にも滞在していたことから、小説「不如帰」の舞台が当地近辺ではないかと噂となり、不動尊もその小説の主人公「浪子」から浪子不動とも称されるようになったといいます。昭和28年(1953)葉山慶増院を移建、葉山ゆかりの政治家政治家高橋是清・犬養毅から寺号を高養寺と号して一寺となっています。
境内掲示による高養寺の縁起
浪子不動(高養寺)と不如帰の碑
海上の安全を願って、古くから不動明王が祀られ、「白滝不動」とか、「波切不動」と呼ばれていました。「白滝」の名は、左奥の崖にある小さな滝からきています。明治の文豪徳富蘆花のベストセラー小説『不如帰』がここを舞台としていたことから、悲恋のヒロイン「浪子」にちなんで、「浪子不動」と呼ばれるようになりました。
本堂は、葉山にあった慶増院の建物を昭和二十八年(一九五三)に移したものです。高養寺の名は、葉山にゆかりのあった二人の政治家高橋是清・犬養毅からとられています。
本堂の前の海中に立つ「不如帰」の碑は、昭和八年(一九三三)に建てられました。碑の文字は蘆花の兄蘇峰の筆によるものです。この石は、江戸時代の初め、江戸城修築のために、鍋島藩が伊豆から江戸への海上輸送中に嵐に遭い、大崎沖で難破し置き去りにされたものと伝えられ、鍋島石と言われていました。(逗子市・自然の回廊プロジェクト掲示より)
新編相模国風土記稿による高養寺の縁起
(小坪村)
不動堂
小瀧不動と號す、佛乗院持、 (新編相模国風土記稿より)
「逗子町誌」による高養寺の縁起
浪子不動
小瀧不動、白瀧不動、御瀧不動、浪切不動など稱す、池子東昌寺の持なり、新宿海岸北部の岩壁を辿り行くこと數町にして本堂あり、字瀧の澤と云ふ所なり、岩壁上より高さ二丈餘の瀧あり、仍てかくは異名あれども、今は徳富蘆花氏の筆になる小説不如帰によつて知られたるを以て誰云ふとなく浪子不動と稱し、其蹟を慕ふ意か賽するもの及び死所をこゝに求むるもの年々に多し。
然れども此不動尊は古来厄除不動と稱し靈驗顯たかにして参詣すれば必ず死を救うて一縷の光明を與へ給ふと、方九尺の岩窟内に高さ二尺餘の不動の像あり、此は弘法大師自作と傳ふ。夫婦松(大正六年婦松を海嘯に失ふ)不動の岩等ありて附近磯遊びに適し章魚の名高き漁場なり。 (「逗子町誌」より)
「逗子市史別編民俗編」による高養寺の縁起
新宿は昭和十八年、小坪から分かれてできた新地区である。寺は高養寺(浪子不動)がある。当寺は昭和二十八年に葉山堀内より移建された。寺内に担られる不動尊は浪却不動とか小滝不動と呼ばれ、昔から漁業関係者の厚い信仰を受けてきた。主要な年中行事は、一月二十八日の初護摩正・五・九月の二十八日に不動まつりがあり護摩が焚かれる。この他、正月二日小坪の船祝いに際し、小坪から舟で参詣し、豊漁と安全祈願のお札が出されている。高野山真言宗で池子東昌寺が兼務している。 (「逗子市史別編民俗編」より)
高養寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「逗子町誌」
- 「逗子市史別編民俗編」