延命寺。逗子市逗子にある高野山真言宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

延命寺。行基菩薩開基、湘南七福神の大黒天

延命寺の概要

高野山真言宗寺院の延命寺は、黄雲山地蔵院と号します。延命寺は、行基菩薩が開基したと伝えられ、三浦氏の祈願所とされ、三浦氏滅亡後は後北條氏の祈願所だったといいます。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には寺領5石の御朱印状を受領、近隣に末寺門徒寺を擁する中本寺格の寺院でした。境内には、三浦道香主従七武士墓が残されています。三浦地蔵尊霊場24番、三浦二十八不動尊霊場28番、三浦半島干支守り本尊辰巳年・普賢菩薩の寺、東国八十八ヵ所霊場80番、湘南七福神の弁財天です。

延命寺
延命寺の概要
山号 黄雲山
院号 地蔵院
寺号 延命寺
住所 逗子市逗子3-1-17
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



延命寺の縁起

延命寺は、行基菩薩が開基したと伝えられ、三浦氏の祈願所とされ、三浦氏滅亡後は後北條氏の祈願所だったといいます。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には寺領5石の御朱印状を受領、近隣に末寺門徒寺を擁する中本寺格の寺院で、逗子地内で祀られていた亀岡八幡神社や神明宮・山王社の別当を勤めていました。

新編相模国風土記稿による延命寺の縁起

(逗子村)
延命寺
黄雲山地蔵院と號す、古義眞言宗(高野山金剛峯寺末)本尊大日、又延命地蔵を置く(是舊の本尊なり、行基作、長六寸五分)當寺は行基の開基にして僧朝賢中興す(賢天文二十年三月十五日寂す、)三浦氏及北條氏代々の祈願所なりしと云ふ、寺領五石の御朱印は天正十九年十一月賜ふ(其地櫻山村にあり)
【寺寶】
不動畫像二幅(一は弘法筆三浦義明寄附、一は智證筆北條氏直寄附と云、)
弘法大師畫像一幅
古文書二通(一は天正十一年七月北條氏の與ふる所、山中上野介の奉書なり、虎朱印を押す、見本郡雨乞の祈念誠を抽べきの由、當寺及妙音寺に令する所なり、一は豊太閤が小出甚右衛門等九人に與る書翰なり、傳来の由来詳ならず、)
鐘樓。文政五年再造の鐘をかく(元禄三年の舊銘に鐫る)
荒神社
三浦道香墓。五輪塔なり(高三尺許)寺傳に道香は入道道寸の弟なり、道寸北條氏綱と矛盾の時永正十年七月七日道香氏綱と此地に戰ひ、軍敗れ此寺に入て自害せりと云ふ、今に至り當日追福を修す、道香の帶せし正宗の短刀を傳へしかど慶長年中失へりと云ふ、又道香が一族の墓所六基あり、
支院廢跡。正覺院、普門院、浄本坊(以上慶長中迄存せしと云ふ)(新編相模国風土記稿より)


延命寺所蔵の文化財

  • 銅造阿弥陀三尊像(市指定文化財)
  • 三浦道香主従七武士之墓

銅造阿弥陀三尊像

延命寺は、黄雲山地蔵密院と号し、行基が開創したと伝えられる真言宗の寺です。
銅造阿弥陀三尊像は、各像とも半肉彫りで蓮華座を一鋳にしていて、元来は懸仏として鋳造されたものとみられます。『新編相模國風土記稿』逗子村八幡宮(亀ヶ岡八幡宮)の条に「本地佛を置く、三尊彌陀の木像を銕面に打付しものなり」と記して扇型の板に付けた三尊像の図を掲げています。木像とあるのは誤りと思われますが、もし当初からこのような形をしていたとすれば、懸仏の形式として珍しい例と言えます。
中尊の阿弥陀如来坐像は像高一〇・六センチメートル。脇侍の観音・勢至菩薩立像はそれぞれ約八・五センチメートルの大きさで、中尊は弥陀定印(上品上生印)と結んでいます。三像とも造形は、細部まで丁寧に仕上げられており、面部や体躯も張りがあり、衣の皺も写実的な柔軟さを保っています。鎌倉時代後期ごろの制作と考えられ、市内にのこる貴重な作品です。
永く木製の厨子に納められていましたが、昭和四十八年(一九七三)に『風土記稿』の記述にならって、扇型の板材に取り付けられました。(逗子市教育委員会掲示より)

三浦道香主従七武士之墓

時は戦国時代、北条早雲は三浦道寸義同が従っていた平塚の岡崎城を襲い敗退せしめた。三浦道寸義同は、弟の三浦道香が守る小坪住吉城に退いたが時すでに遅く、永正十年城を攻められ落城する。三浦道香主従七武士は落ちのびた末、当山にて自害するに至ったのである。
三浦道寸義同はその後、新井城(現在の三浦市油壷付近)へと退いたが、永正十三年に三浦道寸義同とその子の義意と共に新井城で自害をし、三浦一族は滅亡したのである。
この墓は、家臣であった菊池幸右衛門が三浦道香主従七武士の霊を弔う為に建立したものである。(境内掲示より)

延命寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿