阿伎留神社|延喜式内社、旧郷社
阿伎留神社の概要
阿伎留神社は、あきる野市五日市にある神社です。阿伎留神社の創建年代等は不詳ながら、延喜式神名帳に多磨郡八座の筆頭に「阿伎留神社」と記載され、元慶8年(884)には従四位下に神階を授けられています。源頼朝をはじめ足利尊氏、北条氏康からの社領を寄付を受け、徳川家康が関東入国した天正19年(1591)には社領10石の御朱印状を受領しています。明治6年郷社に列格、明治40年五月神饌幣帛供進神社に指定されています。
社号 | 阿伎留神社 |
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祭神 | 大物主神 |
相殿 | 味耜高彦根命、建夷鳥命、天児屋根命 |
境内社 | 若雷神社、菅原神社、稲荷神社、大鳥神社、市神社 |
住所 | あきる野市五日市1081 |
祭日 | 9月28・29・30日 |
備考 | - |
阿伎留神社の由緒
阿伎留神社の創建年代等は不詳ながら、延喜式神名帳に多磨郡八座の筆頭に「阿伎留神社」と記載され、元慶8年(884)には従四位下に神階を授けられています。源頼朝をはじめ足利尊氏、北条氏康からの社領を寄付を受け、徳川家康が関東入国した天正19年(1591)には社領10石の御朱印状を受領しています。明治6年郷社に列格、明治40年五月神饌幣帛供進神社に指定されています。
東京都神社名鑑による阿伎留神社の由緒
創立起源不詳。延喜式内社。社名は阿伎留、秋留、畔切と書き、あきると読む。『三代実録』光孝天皇元慶八年(八八四)秋七月十五日の条に、武蔵国正五位下勲六等畔切神に従四位下を授けたとある。武将の崇敬も厚く源頼朝、足利尊氏、後北条氏もそれぞれ社領を寄進し、徳川家康は天正十九年(一五九一)十一月に秋留郷松原の内で十石を寄進し、以後代々その先例に従った。天保元年(一八三〇)類焼により社殿等いっさい烏有に帰す。明治二十一年現社殿再建。昭和六年神楽殿、鳥居等建設、昭和三十六年社務所新築。(東京都神社名鑑より)
「五日市町史」による阿伎留神社の由緒
阿伎留神社
大字五日市字松原ヶ谷戸一〇八一番地に鎮座する。秋川を目の下に望む段丘上にあり、荘厳な森に包まれていたが、昭和四十一年九月の大風雨に数十本の老杉を失ってしまった。祭神は主神に大物主神、相殿に味鋤高彦根命・建夷鳥命・天児屋根命を祀る。氏子区域は大字五日市、つまり東町・下町・仲町・上町・栄町の通称「五町内」と、入野・小庄の七自治会の地域である。
社号は、延喜式神名帳に記されているとおり、「阿伎留神社」 と書く。また「阿伎瑠」とも書く。三代実録や、大永元年(一五二一)銘のある神璽版木、あるいは北条氏寄進状には畔切と書かれており、また別に、建武五年(一三三八)銘の懸仏には秋留と刻んである。いずれも「あきる」と読む。なお現存する江戸幕府よりの朱印状、家康・秀忠・家光の三通の宛名は「松原大明神」であるのに、それ以後の九通は「春日大明神」となっている。氏子内の通称は「松原」「松原様」である。
神社の創立起源は不詳である。平安時代初期の法令である「延喜式」巻九は、通称「神名帳」とよばれ、新年の国幣にあずかる諸国の神社名が列記されているが、その武蔵国多摩郡八社の筆頭に挙げられている「阿伎留神社」が当社であると伝えられている。このことは、当社が古来武蔵圏内では著名の社であったことを示すものであろう。また同じく平安時代の正史である『三代実録』の光孝天皇元慶八年(八八四)秋七月十五日の条に、「武蔵国正五位上勲六等畔切神に従四位下を授けた」旨が記載されている。神社で位のほかに勲等を授けられたものは、諸書を総合してみても全国で七〇数社しかなかった。そこで、江戸末期において、当社ではこれを「勲社」と呼んで、境内末社小川神社にこれを合祀し、また勲社の全神社名を記した掛軸をつくり、これを氏子に頒布した。いなおこの小川神社(小川明神)と本社との関係には考証の余地ありとも言われている(先史・古代の項参照)。
鎌倉時代以後、武将の崇敬も厚く、建久四年(一一九三)、源頼朝が土地を寄進したのをはじめ、足利尊氏、北条氏康もそれぞれ社領を寄進したと伝えられる。また徳川家康は、江戸入府の翌年天正十九年(一五九一)十一月に、秋留郷松原の内で一〇石を寄せた。
寄進大明神
武蔵国多西郡秋留郷松原之内拾石之事
右令寄附訖弥可専祭祀之状如件
天正十九年辛卯十一月日(福徳印)
それ以後、代々の将軍は家康の先例に従って同じ土地を寄進しべその朱印状一二通を現存している。
明治以後、神社制度の確立にともない、本社は明治六年(一八七三)十二月、郷社に列格され、後、明治四十年五月神饌幣帛供進神社に指定された。
社殿は、文政十三年(一八三〇)十二月の火災のため、末社、楼門などとともに一切烏有に帰した。そこで幕府に請うて、江戸府中および武蔵一国の勧化許可をうけ、資金資材の準備を進めたが、折から幕末多端の折で、本殿造営にまで至らず、長らく仮殿のまま過したが、明治二十一年十一月、ようやく現在の本殿・拝殿が完成した。その後、大正四年に、大正天皇御大典記念として拝殿に向拝と幣殿が増築され、昭和三年には、同じく今上天皇御大典記念として、大鳥居・神楽殿が新築されて、昭和三十六年八月、社務所が完成した。なお現在の神輿は天保十三年(一八四二)のもの、また流造間口三尺・奥行六尺の大鳥神社(末社)は天保二年(一八三一)の造立であり、その横に旧五日市宿の「市神」として宿場にあった自然石が移しまつられてある。
また、本社には次のような社伝もある。
天慶三年(九四〇)、鎮守将軍藤原秀郷が平将門を征討しようとしたとき、皇城(京都)の守護、山城国乙訓郡小塩山の大原明神の神霊を、武蔵国内の有勲の大社に合殿しまつったならば、目的が達せられるであろうという神示により、本社をえらんで、山城国小塩山の土を畔切宮に移し、大原明神をここに勧請し、併せて、乙津・小倉・入野の神をまつり、松・桜も移し、神税一万束をたてまつって東国鎮護を祈願した。これ以後、本社を「小塩宮」とも称し、小塩(小庄)という地名もそれにつれて起こったものであるといわれ、大原明神(大原野神社)は奈良の春日明神を京都に移しまつったものであるから、本社を春日明神と称するのもここに起因するというのである。(「五日市町史」より)
新編武蔵風土記稿による阿伎留神社の由緒
(五日市村)
阿伎瑠神社
村の南方秋川の北岸にあり、五尺に六尺の社にて前に拝殿あり、六間に三間、阿伎瑠神社の五字を扁す、すなはち【延喜式】神名帳に載る所の多磨郡の八座の一社なりといへり、祭神は甘鋤(或は味鋤)高彦根命にて圓鏡を神體とす、天正十九年社領十石の御朱印を賜ふ其文に寄進大明神領武蔵多西郡阿伎瑠郷松原之内拾石云云とあり、神主有竹長門が話に當社古之神體は八幡太郎義家着領の胸懸なり、銘に武蔵國阿伎瑠神社小鹽松原大明神、建武五年二月朔日社務本願敬白と鐫てあれど、この神體今深く秘して他見を許さざれば見ることあたはず、又いかなる故にて建武の年號あるにや、いづれ附會の説なるもしるべからず、此社は式内にあらはれたれば、祭神は始に云ごとくなるべし、この餘中古のことはすべて傳へず、寛永年中ゆへありて春日明神と稱し始めしとて、式内に春日大明神の五字を扁額せり社地すべて杉檜蒼鬱として一叢の林をなし、寂寥たる古社とみえたり、祭禮毎歳六月晦日夏越の祓、及九月廿九日清祓の神事とて、前日より市場の中に旅舎を營み、神輿を移し祀れり、神主有竹長門は吉田家の配下なり、本社のかたはらに住居せり、
寶物
胸懸一
南蠻鐡を以制したるものなりと云、則まへにいへる八幡太郎義家の著領にて、昔神體とせしものなり、
馬印一
金の御本骨の扇なり、
鉾一
身の長二尺、柄六尺許、以上の三品は深く神秘して他見を許さざれば、眞僞を詳にせず、
末社
住吉社
本社の側にあり、下の二社も同邊なり、
稲荷社
天満社
寶蔵。本社の左にあり、二間に二間半、神輿寶物等を蔵せり、(新編武蔵風土記稿より)
阿伎留神社の由緒
- 年中十二祭神事絵巻(あきる野市指定文化財)
- 武州南一揆文書六通(あきる野市指定文化財)
- 懸仏台盤(あきる野市指定文化財)
年中十二祭神事絵巻
狩野谿運久信筆の美しく彩色された絵巻物で、江戸末期の作。当社で古くから行われていた月毎の祭事が描かれており、当時の年中行事がうかがえる。(あきる野市教育委員会掲示より)
武州南一揆文書六通
武州南一揆は南武蔵の在郷武士団で、その有力集団が秋川流域にあり、一五世紀を中心に活躍した。当社には六通の関係文書があり、中でも應永二四年(一四一七)関東公方足利持氏の下した恩賞状は資料価値が高い。(あきる野市教育委員会掲示より)
懸仏台盤
この懸仏は中央の仏体が失われ、台盤(径三〇cm)のみである。裏面に陰刻された「武蔵国秋留神社小塩村松原大明神之御本躰、建武五年(一三三八)二月沙弥本願敬白」の文字は地域の希少な中世資料である。(あきる野市教育委員会掲示より)
阿伎留神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「五日市町史」
- 東京都神社名鑑