正勝神社|あきる野市菅生の神社

猫の足あとによる多摩地区寺社案内

正勝神社|菅生太郎有孝同次郎経久が祈願所として創建した山神社

正勝神社の概要

正勝神社は、あきる野市菅生(小名)にある神社です。正勝神社は、当地に居住していた横山党の一族菅生次郎経孝の嫡子菅生太郎有孝同次郎経久が祈願所として元暦年間(1184-1185)に創建、地元民の参詣に不便な地だったことから、元禄4年(1691)当地に社殿を造営したといいます。明治2年に社号を山神社から正勝神社に改号、明治6年村社に列格していました。

正勝神社
正勝神社の概要
社号 正勝神社
祭神 大山祇命
相殿 -
境内社 八雲社、稲荷社、市杵島社、猿田彦社、大口真神社
住所 あきる野市菅生1819
祭日 9月29日
備考 -



正勝神社の由緒

正勝神社は、当地に居住していた横山党の一族菅生次郎経孝の嫡子菅生太郎有孝同次郎経久が祈願所として元暦年間(1184-1185)に創建、地元民の参詣に不便な地だったことから、元禄4年(1691)当地に社殿を造営したといいます。明治2年に社号を山神社から正勝神社に改号、明治6年村社に列格していました。。

東京都神社名鑑による正勝神社の由緒

創建年代不詳。元暦年中(一一八四-八五)横山党小倉三郎の男菅生太郎有孝、同次郎経久の祈願所として山中に鎮祭。元禄四年(一六九一)里宮を造立。明治四十三年、本殿覆舎、幣殿を造営。天保十三年(一八四二)造営の旧本殿覆舎を拝殿とした。明治二年旧称山ノ神を正勝神社と改称。(東京都神社名鑑より)

「秋川市史」による正勝神社の由緒

正勝神社 菅生一八一九番地
菅生の鎮守である。創建年代は不詳である。『新編武蔵風土記稿』には「山神社、除地、五畝、社地三敵、無年貢地、小名上にあり、・・・この辺の鎮守なり、この社は往古今の所より北の方にありしといふ、いつのころこの地にうつせしや」とある。古くは現在地より約一粁程奥の方にあったという。元禄四年(一六九一)正月十八日、一般の人々の参詣の便のために、現在の位置に社殿を造営した。
明治二年(一八六九)旧称山ノ神を正勝神社と改称、同六年(一八七二)村社となった。明治四十三年(一九一〇)四月には本殿覆舎、幣殿を造営し、天保十三年(一八四二)に造営された旧本殿の覆舎は拝殿とした。
御祭神は大山祇命であるが、古くから青銅製の十一面観音の懸仏を神体としていた。懸仏は直径一八センチ、製作年代、その他銘は刻まれていないが、室町時代のものといわれる。
社伝によれば元暦年間(一一八四)当地に居住していた武蔵七党中の横山党の一族といわれる菅生次郎経孝の嫡子菅生太郎有孝同次郎経久の祈願所であったといわれる。菅生氏の氏神の性格がつよかったのかもしれない。
祭礼は九月二十九日である。明治四十二年(一九〇九)までは例祭に獅子舞が奉納されていた。(「秋川市史」より)

新編武蔵風土記稿による正勝神社の由緒

(菅生村)
山神社
除地、五畝、社地三畝、無年貢地、小名上にあり小社にて、上屋二間四方、拝殿三間に二間、東向本地十一面觀音を身體とす、例祭年々八月朔日、この邊の鎮守なり、この社は往古今の所より北の方にありしといふ、いつの頃この地にうつせしにや、村内泉蔵院の持、
末社、第六天社、稲荷社、辨天社。以上三社みな小社なり、向て右の方にあり、(新編武蔵風土記稿より)


正勝神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「秋川市史」
  • 東京都神社名鑑