龍淵山賓泉寺|小田原城主北條氏康が建立
賓泉寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の賓泉寺は、龍淵山と号します。賓泉寺は、小田原城主北條氏康が薬師如来像を奉安する小庵を天文年間(1532-54)に建立、以雲心禅師が当地へ移して天正17年(1589)創建したといいます。
山号 | 龍淵山 |
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院号 | - |
寺号 | 賓泉寺 |
住所 | あきる野市引田681 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
賓泉寺の縁起
賓泉寺は、小田原城主北條氏康が薬師如来像を奉安する小庵を天文年間(1532-54)に建立、以雲心禅師が当地へ移して天正17年(1589)創建したといいます。
新編武蔵風土記稿による賓泉寺の縁起
(引田村)寶泉寺
境内除地、一段五畝歩、村の西にあり、龍淵山と號す禅宗臨済派、郡中小和田村廣徳寺の末山なり、開山知れず、客殿五間に三間半、南向なり、本尊薬師を安置せり、(新編武蔵風土記稿より)
「秋川市史」による賓泉寺の縁起
宝泉寺(引田六八一番地)
山号は竜渕山といい、本尊は薬師如来である。もとは五日市小和田広徳寺末であった。
寺伝によると、後奈良天皇の天文年間(一五三二-五四)に、小田原城主北条氏康が、一小庵を開いて、薬師如来を奉安したといわれている。当時は村の東北方下原旧字仏土という所に在った。
天正十七年(一五八九)十月に現在の地に移って、初めて一寺を創立し、以雲心禅師を請うて開山とした。禅師は慶長十八年(一六一三)三月二十一日入寂している。
嘉永四年(一八五一)二月八日火災にあい、堂宇悉く焼失したが、同六年(一八五三)三月になって、海老沢雷翁によって再建されたのである。
その後、明治三十年(一八九七)三月五日隣村増戸村山田よりの出火で、類焼して、本堂庫裡などが失われた。しかし明治四十一年(一九〇八)に本堂を再建し、昭和四十二年(一九六七)四月二十三日には待望の庫裡も再建された。(「秋川市史」より)
賓泉寺所蔵の文化財
- 賓泉寺板碑一基(あきる野市指定有形文化財)
- 足利尊氏坐像一基(あきる野市指定有形文化財)
新編武蔵風土記稿による賓泉寺の縁起
板碑は、鎌倉時代から室町時代にかけて、追善や供養などの目的で作られた石製塔婆の一種です。
この板碑は蓮華台の上に、草書体で「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の称号(名号)が大きく彫られ、その下方中央に「門阿」(供養者名)、右に「建武二年乙亥」(一三三五)、左に「七月廿一日」の文字が刻まれています。
秩父産の緑泥片石が使用され、市内では大型に属し、遺存状態も良好です。(あきる野市教育委員会掲示より)
足利尊氏坐像一基
臨済宗建長寺派に属する賓泉寺は、南北朝時代に開かれたと考えられています。開基(創立者)は尊氏の子である基氏の母(あるいは伯母)という寺伝がありますが、この像はこの伝承と符号しています。また南朝、北朝にわかれての全国的な戦乱の時代に、当地方が北朝系地侍の地盤であったことを示しています。
制作年代は江戸時代と考えられ、尊氏像はあまり類例を見ないことから希少価値があります。
なお、昭和四〇年代に修復が行われ、彩色が施されています。(あきる野市教育委員会掲示より)
賓泉寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「秋川市史」