廣済寺|あきる野市平沢にある臨済宗建長寺派寺院

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平沢山廣済寺|窪島家の祖先八郎左衛門が開基、田中丘隅(休愚)出身地

廣済寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の廣済寺は、平沢山と号します。廣済寺は、窪島家の祖先八郎左衛門が開基となり、天正15年(1587)に創建、椿山仙禅師が開山したといいます。なお、田中丘隅(休愚)は、当地平沢の窪島家に生まれ、川崎宿の名主田中家に養子となった人物で、自著が将軍吉宗の上覧に達したことを契機に、江戸幕府の地方役人に抜擢され、六郷用水・二ヶ領用水の普請工事などを指揮したことで知られ、丘隅(休愚)の死後間もない時期に、兄の窪島祖道が願主となって建立したものだそうです。廣済寺

廣済寺の概要
山号 平沢山
院号 -
寺号 廣済寺
住所 あきる野市平沢732
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



廣済寺の縁起

廣済寺は、窪島家の祖先八郎左衛門が開基となり、天正15年(1587)に創建、椿山仙禅師が開山したといいます。なお、田中丘隅(休愚)は、当地平沢の窪島家に生まれ、川崎宿の名主田中家に養子となった人物で、自著が将軍吉宗の上覧に達したことを契機に、江戸幕府の地方役人に抜擢され、六郷用水・二ヶ領用水の普請工事などを指揮したことで知られ、丘隅(休愚)の死後間もない時期に、兄の窪島祖道が願主となって建立したものだそうです。

新編武蔵風土記稿による廣済寺の縁起

(平澤村)廣済寺
除地、六段五畝十歩、村の中程にあり、禅宗臨済派、鎌倉建長寺末、開山椿山元和三年寂す、開基は當村の名主八郎左衛門が先祖なりとのみ云傳にて、其年歴等は詳ならず、平澤山と號す、本尊釋迦、長二尺許、客殿は近ごろ回禄にあひて烏有となり、いまだ造榮せず。
彌陀堂。三間四方、東向、彌陀は坐像にして、三尺許、境内にあり。(新編武蔵風土記稿より)

「秋川市史」による廣済寺の縁起

広済寺 平沢七三二番地
山号は平沢山という。臨済宗建長寺派、本尊は釈迦牟尼仏である。
創建は天正十五年(一五八七)二月で、椿山仙禅師を開山とする。開基ははっきりしないが、『新編武蔵風土記稿』によれば「当村の名主八郎左衛門が先祖なりとのみ言伝にて、其年歴等は詳ならず」としている。八郎左衛門は窪島家の祖先にあたる。
文政三年(一八二〇)火災のため、堂宇、古文書、寺記などことごとく焼失してしまった。その後天保七年(一八三六)十九世三嶽和尚の尽力によって再建された。
昭和二十四年(一九四九)二月二十一日、春の彼岸に隣家から類焼して、山門を残すのみで、本堂、庫裡共に灰燼に帰してしまった。昭和四十九年(一九七四)十月六日、新しい庫裡が竣工落慶した。
境内に田中丘隅の回向墓がある。田中丘隅は寛文二年(一六六二)一二月十五日、平沢の窪島家に生まれ、その後、川崎宿の名主田中家に養子に入り、民政につとめた。
後に幕臣となり、荒川、多摩川、酒匂川などの治水工事に治績をあげ、多摩・埼玉二郡のうち三万石を支配する代官となった。五十九歳のとき著した『民間省要』は江戸時代の農村の実態と、村を治める者の心得を伝えた史料として貴重である。享保十四年(一七二九)十二月廿二日逝去している。享年六十七歳である。(「秋川市史」より)


廣済寺所蔵の文化財

  • 田中丘隅回向墓(東京都指定有形文化財)

田中丘隅回向墓

田中丘隅(休愚)は江戸時代を代表する民生家の一人で、自らの経験をもとに近世を通じて最もすぐれた経世の書といわれる『民間省要』を著述している。その著書は八代将軍吉宗に献上され、享保改革に少なからぬ影響を与えたといわれている。丘隅は自著が将軍吉宗の上覧に達したことを契機に、江戸幕府の地方役人に抜擢され、荒川・多摩川・酒匂川の治水工事、さらに六郷用水・二ヶ領用水の普請工事などに手腕を振るい、そして、のちには代官(支配勘定格)に任ぜられ、武蔵国などの幕領支配にもあたっていた。
彼は旧多摩郡平沢村(現・あきる野市平沢)出身で、享保十四年(一七二九)に死去しているが、回向墓は彼の死後間もない時期に、兄の祖道が願主となり一族有縁者の助成によって建立されたものと考えられる。
建立時やその後の状況についてはまったく不明である。材質は伊奈石。台座は白河石。回向墓の高さは台座を含め約百六十六・七センチメートル。
彼の生家の菩提寺である廣済寺境内に建つ回向墓は、丘隅の事蹟を簡潔にまとめた銘文が刻まれており、民生家田中丘隅の活躍を偲ぶことができる貴重な歴史資料である。(東京都教育委員会掲示より)

廣済寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「秋川市史」