薬王山明光寺|江戸幕府より寺領5石の御朱印状
明光寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の明光寺は、薬王山と号します。明光寺は、戸倉の光厳寺九世星丘集禅師を開山として康安2年(1362)に創建、江戸幕府より寺領5石の御朱印状を受領しています。明治40年伊奈の寄福山普門寺を合寺しています。
山号 | 薬王山 |
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院号 | - |
寺号 | 明光寺 |
住所 | あきる野市伊奈1463 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
明光寺の縁起
明光寺は、戸倉の光厳寺九世星丘集禅師を開山として康安2年(1362)に創建、江戸幕府より寺領5石の御朱印状を受領しています。明治40年伊奈の寄福山普門寺を合寺しています。
新編武蔵風土記稿による明光寺の縁起
(伊奈村)
明光寺
字上村にあり、五石の御朱印を賜へり、禅宗臨済派、同郡戸倉村光嚴寺末、薬王山と號す、本堂八間に五間、南向なり、本尊薬師運慶作なりと云、靈驗あらたかなるゆへ秘してみだりに拝することを許さず、開山星丘集和尚は康和二年三月廿八日寂す、
鐘樓。二間四方、本堂西にあり、新鐘にて年號をえらず、(新編武蔵風土記稿より)
「五日市町史」による明光寺の縁起
明光寺
(伊奈一、四六三番地)臨済宗建長寺派に属し、山号を薬王山と号す。創立は康安二年(南北朝・一三六二)、開山は戸倉の光厳寺九世星丘集禅師で、開基は不詳である。寺伝によれば、室町時代足利家より寺領の寄進あり、のち代々の徳川将軍から御朱印五石が寄せられていた。その間、天正年間に兵火のため堂宇及び古記録等は悉く焼失した。くだって明治六年七月十四日にも、民家からの出火による火災で伽藍を失ったので、同年十月に民家を移築し、仮本堂として現在に至っている。本尊は薬師如来で、運慶作といわれ、古くより秘仏とされているが、現在は毎年一回、九月十二日に開扉されている。大施餓鬼は七月十七日に行われる。境内地は二八八坪で、鐘楼があり、また説教浄瑠璃第九代家元薩摩若太夫の碑がある。これは昭和四十一年に、十代目家元が中心となって建立したもので、説教浄瑠璃は江戸より明治にかけて「説教節」と呼ばれ、当地方に行われた芸能であるが、当地区は最も盛んであったという。
なお、伊奈一、四四〇番地には普門寺という寺があったが、明治四十年頃、明光寺に合寺され、現在その寺跡には庚申堂と墓地が残されており、上村クラブ・児童遊園地などがある。普門寺は寄福山と号し、室町末期頃の創立で、開山は光厳寺十四世万宗芳純禅師、本尊は阿弥陀如来であった。(「五日市町史」より)
明光寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「五日市町史」