東町太子堂|あきる野市五日市にある寺院

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東町太子堂|宝永年間に観音堂として創建、勧能学校

東町太子堂の概要

寺院の東町太子堂は、東町観音堂とも称され、あきる野市五日市にあります。東町太子堂は、東町太子堂は、宝永年間(1704-1711)に馬場某が開基となり、観音堂として創建、その後再造に際して本尊を観音像から聖徳太子像へ変え、太子堂と呼称するようになったといいます。江戸時代後期に編纂された新編武蔵風土記稿には、当時本尊聖徳太子立像の他、馬頭観音立像、抹香煉觀音立像、阿弥陀如来坐像を有していと記しています。阿弥陀如来像は江戸初期の作とされ、あきる野市有形文化財に指定されています。明治維新後には、五日市小学校の前身となる勧能学校が明治5年に太子堂で開校しています。

東町太子堂
東町太子堂の概要
山号 -
院号 -
寺号 -
住所 あきる野市五日市164
宗派 -
葬儀・墓地 -
備考 -



東町太子堂の縁起

東町太子堂は、宝永年間(1704-1711)に馬場某が開基となり、観音堂として創建、その後再造に際して本尊を観音像から聖徳太子像へ変え、太子堂と呼称するようになったといいます。江戸時代後期に編纂された新編武蔵風土記稿には、当時本尊聖徳太子立像の他、馬頭観音立像、抹香煉觀音立像、阿弥陀如来坐像を有していと記しています。阿弥陀如来像は江戸初期の作とされ、あきる野市有形文化財に指定されています。

新編武蔵風土記稿による東町太子堂の縁起

(五日市村)太子堂
小名權田にあり、四間半四方、本尊は木の立像、長二尺九寸、この餘彌陀の坐像長一尺二寸、馬頭觀音の立像長一尺二寸餘、抹香煉觀音立像長三寸許なるを安せり、此堂は寶永年中馬場某開基せしにて、元は觀音堂なりしが、後再造の時より、太子を本尊として太子堂と呼びならはせりと云、(新編武蔵風土記稿より)


東町太子堂所蔵の文化財

  • 東町観音堂木造阿弥陀如来像一軀(あきる野市指定有形文化財)
  • 勧能学校跡

東町観音堂木造阿弥陀如来像一軀

舟形をした光背の高さは七一・五cm、像の高さは四四・七cmです。寄木造りで、目は玉眼です。衲衣(袈裟)には、金泥により細密で華麗な文様が施されています。左手首など一部を失っていますが、保存状態は良く、面貌は端正で円満、態様も荘厳です。
江戸初期の作と認められ、鎌倉時代前期の像にならった秀作です。(あきる野市教育委員会掲示より)

勧能学校跡

勧能学校跡
勧能学校は、明治五(一八七二)年の学制発布に伴い、五日市村に造られた学校で、現在の五日市小学校の前身です。
明治六(一八七三)年一一月に勧能学舎の名称で発足し、明治八(一八七五)年七月に勧能学校と改称されています。
当時新たに学校施設を作るには、時間的にも金銭的にも余裕がないため、無住のお寺などが利用されましたが、勧能学校もこの地にあった太子堂が使われました。
自由民権運動が盛んであった明治一〇年代には各地から民権家が多く集まり、活動の拠点の一つとなっていました。五日市憲法草案の起草で知られる千葉卓三郎も、同郷の初代校長永沼織之丞のもとで助教となり、第二代校長を務めています。(あきる野市教育委員会掲示より)

東町太子堂の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「五日市町史」