玉林寺|あきる野市五日市にある臨済宗建長寺派寺院

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鳳凰山玉林寺|武蔵五日市七福神の福禄寿

玉林寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の玉林寺は、鳳凰山と号します。玉林寺は、明叟斉哲禅師が開山となり暦応2年(1339)に創建、檜原城主平山新左衛門氏重(寶際院殿心解了脱居士)を開基とするといいます。江戸期には幕府より寺領15石5斗の御朱印状を受領しています。武蔵五日市七福神の福禄寿です。

玉林寺
玉林寺の概要
山号 鳳凰山
院号 -
寺号 玉林寺
住所 あきる野市五日市926
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 4月28日大般若会、7月9日山門大施餓鬼会



玉林寺の縁起

玉林寺は、明叟斉哲禅師が開山となり暦応2年(1339)に創建、檜原城主平山新左衛門氏重(寶際院殿心解了脱居士)を開基とするといいます。江戸期には幕府より寺領15石5斗の御朱印状を受領しています。

新編武蔵風土記稿による玉林寺の縁起

(五日市村)玉林寺
小名小納にあり、御朱印十五石五斗の寺領を賜ふ、臨済宗、同郡戸倉村光嚴寺末、鳳凰山と號す、本堂八間半に六間半、南向なり、表門九尺に二間、本尊釋迦坐像、長一尺三寸許、脇士迦葉、阿難木の立像、各長一尺一寸許り、開山明叟哲和尚、貞和三年七月二日寂す、開基は寶際院心解了脱大居士と云、これすなはち天正の頃小田原北條家の旗下當國檜原の城主平山新左衛門氏重なりと云、
鐘樓。本堂の巽にあり、二間に二間半、鐘の徑二尺餘り、正徳二年再鑄のものなり、
天満宮御靈権現相殿
本堂の北にあり、社は三間一間半、境内の鎮守なり、御靈権現は平山新左衛門氏重を祝ひ祀りたる者なり、
稲荷社
相社の右にあり、感應稲荷と號す、その名の起りを詳にせず、
大日堂
本堂の坤の方にあり、二間に二間半、大日は長五寸許木の坐像なり、佛師春日の作と云ふ、脇立は毘沙門天なり、木の坐像、長二尺餘なり、これも同作なり、(新編武蔵風土記稿より)

「五日市町史」による玉林寺の縁起

玉林寺
(小能九二六番地)臨済宗建長寺派の寺で、山号を鳳凰山という。創立は暦応二年(南北朝時代・一三三九)で、当町の禅宗寺院としては二番目に古い。開山は明叟斉哲禅師、開基は檜原城主平山新左衛門氏重と伝えるが、氏重は法名を実際院心解了脱大居士と言い、天正の頃小田原北条氏の旗下であったと言われるので、開創の年代とは相当の隔たりがある。氏重が当山を再興整備し、寺門の繁栄に尽くしたところから、後代開基と唱えたものであろう。以前に本堂の西側に当山鎮守の天満宮御霊権現の土蔵造りのお堂があり、この御霊権現は氏重のためにまつったものと伝えていたが、堂宇は昭和四十一年の台風で倒壊して今はない。徳川代々の将軍より一五石五斗の御朱印が寄せられ、開山以来の世代は明らかであるが、再度の火災により古記録・寺宝等を悉く失い明細は詳かでない。現在の本堂は弘化五年(江戸末期・一八四八)の建造になり、昭和三十一年に鐘楼、同四十四年に書院並びに庫裡を再建した。表門は江戸期のもので美しい門である。本尊は釈迦如来で日光・月光の脇士があり、境内は九〇三坪。毎年四月二十八日に大般若会、七月十四日に大施餓鬼会が行われる。
なお、町内の栄町(抜苦地蔵)・上町(延命地蔵)・下町(延命地蔵)に同寺持ちの地蔵堂があり、それぞれ七月二十四日・八月二十四日・四月二十四日が縁日である。
また同寺には、古来寺伝のまじないの虫封じがあり、効験あらたかであるという。(「五日市町史」より)


玉林寺所蔵の文化財

  • 本堂天井絵四十八枚一組(あきる野市指定文化財)

本堂天井絵四十八枚一組

本堂内陣の格天井の一枠ごとに草木花鳥と竜を描いたもの、「嘉永六癸丑仲秋 應需真益 藤原善信筆」との銘がある。
藤原善信は、幕末期活躍した五日市小庄在住の狩野派画家で、大悲願寺仁王門の天井絵百花図も同人筆である。
当本堂の絵は精緻な筆致がよく保存され、善信の代表作といえる。(あきる野市教育委員会掲示より)

玉林寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「五日市町史」