福寿山慈勝寺|畠山重弘の息女で千葉上総介常胤の室圓壽院開基
慈勝寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の慈勝寺は、福寿山と号します。慈勝寺は、畠山重忠が伯母の圓壽院理體大尼のために文治4年(1188)に天台宗寺院として創建したといいます。圓壽院は、畠山重弘の息女で、千葉上総介常胤の室となり、常胤の没後、多摩郡小宮庄西ヶ谷戸の奥に草庵を結んでいたといいます。永正2年(1505)戸倉光厳寺十三世貴山得和尚(大永元年1521)が臨済宗寺院として再興、豊臣秀吉の小田原攻めに際して焼失したものの、その後再建、慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領13石の御朱印状を受領しています。奥多摩新四国霊場八十八ヶ所37番です。
山号 | 福寿山 |
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院号 | - |
寺号 | 慈勝寺 |
住所 | あきる野市草花1811 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
慈勝寺の縁起
慈勝寺は、畠山重忠が伯母の圓壽院理體大尼のために文治4年(1188)に天台宗寺院として創建したといいます。圓壽院は、畠山重弘の息女で、千葉上総介常胤の室となり、常胤の没後、多摩郡小宮庄西ヶ谷戸の奥に草庵を結んでいたといいます。永正2年(1505)戸倉光厳寺十三世貴山得和尚(大永元年1521)が臨済宗寺院として再興、豊臣秀吉の小田原攻めに際して焼失したものの、その後再建、慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領13石の御朱印状を受領しています。
新編武蔵風土記稿による慈勝寺の縁起
(下草花村)
慈勝寺
小名本村にあり、禅宗臨済派、同郡戸倉村光嚴寺の末、福壽山と號す、寺記の内に畠山二郎重忠之伯母圓壽院理體大尼鑿開之地也と記せり、或書云、秩父畠山次郎重忠之祖父畠山庄司大夫重弘之嫡女嫁于千葉常胤之伯母也と、今客殿に安する位牌の面に、當寺開基圓壽院殿善通理體大姉とあり、もとより卒年はしるさざれど位牌の上の方に千葉家の紋月星をつけたれば、常胤の室なるにや、何れにも後世より方謚を賜りし者ならん、開山貴山得和尚、大永元年四月十九日寂す、大永は重忠の頃よりは遥の後なれば時代あはず、恐くは傳の誤あるべし、本尊正観音、木の坐像長三尺、本堂七間に八間、南向也、今御朱印寺領、十三石を賜ふ、
鐘樓。客殿の側にあり、鐘は寶永二年に鑄たるものなり、
觀音堂。門を入て左の方にあり、堂は三間四方、觀音は木の立像、長八寸ばかりなり、(新編武蔵風土記稿より)
「秋川市史」による慈勝寺の縁起
慈勝寺(草花一八一一番地)
山号を福寿山といい、本尊は正観世音菩薩である。臨済宗建長寺派でもとは五日市町戸倉の光厳寺末であった。
寺伝によれば、当寺は文治四年(一一八八)畠山重忠が伯母の円寿院のために創建したものという。始めは天台宗であった。
円寿院は畠山重弘の息女で、元千葉上総介常胤の室となり、常胤の没後、仏門に入り、多摩郡小宮庄西ヶ谷戸の奥に草庵を結んで住んでいたという。重忠は鎌倉参府の途次、伯母がここに住んでいるのをきいて、東ヶ谷戸(慈勝寺境内) に堂宇を建立して、観世音菩薩を木尊とし、此処に住まわせて、伯母を開基としたと伝えている。
現在寺には円寿院の位牌が安置してある。
表には
開基円寿院殿善通理体大禅尼覐霛
裏には
建久五年七月十八日
とある。建久五年は一一九四年である。『新編武蔵風土記稿」は、この位牌について触れているが、法号は「犬禅尼」を「大姉」とし、「もとより卒年はしるさなれど」としている。裏に卒年の記してあるのを見落しているようである。永正二年(一五〇五)五日市町戸倉の光厳寺の十三世貴山得和尚(大永元年<一五二一>四月十九日示寂)が、寺の衰微しているのを歎いて再興した。この時建長寺派光厳寺末となったのである。
天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の八王子裁攻略の折、前田利家、上杉景勝の兵のために放火され伽藍すべて焼失して、古文書等はことごとく失われてしまった。現在の堂宇は天正十八年(一五九〇)以後に再建されたものである。慶安二年(一六四九)三代将軍家光公より寺領十三石を受領している。境内の本堂前に都指定(昭和四十九年<一九七四>八月一日)の天然記念物のモッコクがある。目通り幹囲二・二五米、樹高二二・五米に及び巨木でこの地方随一の名木である。(「秋川市史」より)
慈勝寺所蔵の文化財
- 慈勝寺のモッコク
慈勝寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿