水谷山宝清寺|武田勝頼の一族青木勘左衛門開基、小川土佐守の館跡
宝清寺の概要
日蓮宗寺院の宝清寺は、水谷山と号します。宝清寺は、武田勝頼の一族だった青木勘左衛門が元和年中(1615-1624)開基となり、法清院日信が開山したといいます。宝永年中(1704-1710)に水谷信濃守が祈願所としたことから、山号を東照山から水谷山へ改めたといいます。なお、当地は小川土佐守の館跡だといいます。
山号 | 水谷山 |
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院号 | - |
寺号 | 宝清寺 |
住所 | あきる野市小川101 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | 宝清寺たちばな会館・水谷庵 |
備考 | - |
宝清寺の縁起
宝清寺は、武田勝頼の一族だった青木勘左衛門が元和年中(1615-1624)開基となり、法清院日信が開山したといいます。宝永年中(1704-1710)に水谷信濃守が祈願所としたことから、山号を東照山から水谷山へ改めたといいます。なお、当地は小川土佐守の館跡だといいます。
新編武蔵風土記稿による宝清寺の縁起
(小川村)法清寺
境内年貢地、村の中程にあり、日蓮宗身延山久遠寺の末寺なり、水谷山と號す、開山法清院日信寂年を傳へず、元和年中大御番を勤めし青木勘左衛門と云もの基を開きしといへば、其年歴も大抵をして知らる、始めは東照山と號せしが、寶永年中水谷信濃守祈願所とせしより、水谷山と改めたりと、本尊三寶を安す、客殿七間に七間半、東向なり、傳云、今の寺地は往昔小川土佐守の居宅の跡なりと、詳なることは傳へず。(新編武蔵風土記稿より)
「秋川市史」による宝清寺の縁起
宝清寺 小川一〇一番地
『新編武蔵風土記稿』は「法清寺」としている。山号は水谷山という。もとは東照山といったが宝永年中(一七〇四~一〇)水谷信濃守が祈願所としたので、水谷山と改めたという(『武蔵名勝図会』は寛永年中としている)。本尊は日蓮上人像、大曼荼羅である。
日蓮宗身延山派で、西多摩郡では唯一の日蓮宗の寺である。身延山久遠寺末となっている。元和年間(一六一五~二三)法清院日億尼(『新編武蔵風土記稿』は日信とする)を開山として、開基は武田勝頼の一族であった青木勘左衛門で、江戸幕府よりこの地を賜わって甲州から移住した折、かの地の甘利(韮崎市)よりこの寺を移したという。
元禄(一六八八~一七〇三) 及び宝暦(一七五一~六三)年間の火災によって、寺宝、古記録を焼失したので、詳細は分からない。後に本堂は再建された。
境内に宝篋印塔が二基ある。いずれも江戸時代初期のもので、寛永十年(一六三三)と、寛永十六年(一六三九)の紀年がある。共に九輪の一部が欠けているが、高さは高い方、が二・一六メートル。二つとも伊奈石を使ったもので当地方最大のものである。
なお『新編武蔵風主記稿』は「今の寺地は往昔小川土佐守の居宅の跡なりと、詳なることは伝へず」と記している。この寺地は中世士豪の居館跡であることは、「日本城郭大系』第五巻も「小川城」としていることでわかる。(「秋川市史」より)
宝清寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「秋川市史」