珠陽院|あきる野市瀬戸岡にある臨済宗建長寺派寺院

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東岡山珠陽院|江戸幕府より寺領10石の御朱印状、平井学校瀬戸岡分教場

珠陽院の概要

臨済宗建長寺派寺院の珠陽院は、東岡山と号します。珠陽院は、桃英洞禅師(応永33年1416年寂)が応永8年(1403)に開山、慶安2年(1649)には寺領10石の御朱印状を受領しています。明治18年には平井学校瀬戸岡分教場(翌年尋常致一小学校瀬戸岡分教場に改名)が当寺内に開校、明治43年まで供用されていました。

珠陽院
珠陽院の概要
山号 東岡山
院号 珠陽院
寺号 -
住所 あきる野市瀬戸岡1101
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



珠陽院の縁起

珠陽院は、桃英洞禅師(応永33年1416年寂)が応永8年(1403)に開山、慶安2年(1649)には寺領10石の御朱印状を受領しています。明治18年には平井学校瀬戸岡分教場(翌年尋常致一小学校瀬戸岡分教場に改名)が当寺内に開校、明治43年まで供用されていました。

新編武蔵風土記稿による珠陽院の縁起

(瀬戸岡村)
珠龍院
寺地、五畝、村の西によりてあり、禅宗臨済派、小和田村廣徳寺の末山なり、来迎山と號す、開山桃英洞和尚、應永丗三年十月九日示寂す、本尊彌陀、木の坐像、長一尺五寸、客殿に安ず、御朱印寺領十石を領せり、 (新編武蔵風土記稿より)

「秋川市史」による珠陽院の縁起

珠陽院 瀬戸岡五一一番地
山号は東岡山という。臨済宗建長寺派に属し、本尊は木造阿弥陀如来立像である。五日市町小和田の広徳寺末であった。山号は古くは来迎山といった。
『新編武蔵風土記稿』には「来迎山と号す」とあるし、明和五年(一七六八)の『什物帳』(『建長寺史末寺編』)にも、「来迎山珠陽院」とある。山号が来迎山から東岡山となった理由も年代も明らかではない。山号の来迎山と本尊の阿弥陀如来から考えると、浄土宗と関係深い時代があったように考えられるため、『瀬戸岡村誌』には
旧山号、本尊トニ依リ考フルニ在昔ハ浄土宗ナルヤトモ思ハル
とあるという(『秋川市多西郷土精史』五四頁山上茂樹)。
なお珠陽院という寺号が、『新編武蔵風土記稿』では珠龍院となっている。これは『什物帳』も「来迎山珠陽院」であるから、明らかに『新編武蔵風土記稿』の誤りであろう。しかし、ふしぎなことに、明治初年の『旧高旧領取調帳簿』をみると、瀬戸岡村の所に、
大沢顯一郎知行 三〇三・三〇三石
珠竜院領 一〇・〇〇〇石
と出ている。ここでも珠竜院と書かれているのはどうしたことであろうか。
当寺は応永八年(一四〇三)八月、広徳寺開山心源希徹禅師の法孫桃英洞禅師(応永三十三年<一四一六>十月九日一五寂)によってされて開山いる。その後法灯は絶えず、現住の方まで廿二世である。このことから考えると山号、本尊の疑問はあるが、創建以来、臨済宗であったことはまちがいないようである。慶安二年(一六四九)八月二十四日、一二代将軍家光から御朱印一〇石を賜わっている。
なお当寺は明治十八年(一八八五)平井学校瀬戸岡分教場として致一学校として開校したのである。翌十九年(一八八六)には小学校令により尋常致一小学校瀬戸岡分教場として明治四十三年(一九一〇)現在の瀬戸岡クラブに新築移転するまで小学校として使用されていた。当時は教場は二五坪(約八三平方メトトル)、教員室三坪(約九・九平方メートル)勝手二坪(約六・六平方メートル)という広さであった。(「秋川市史」より)


珠陽院所蔵の文化財

  • 珠陽院の巳待供養塔一基(あきる野市指定有形文化財)

珠陽院の板碑一基貞和四年銘

巳待とは、干支の巳の日に同じ信仰を持つ仲間(講中)が集まって、お祈りなどをすることです。巳待の本尊は弁才天で、その供養としてこの石塔が造られました。市内では二例が確認されているのみで、多摩地域でも非常に数が少ない供養塔です。
この供養塔は頭が山の形をした角柱で、正面に弁才天が浮き彫りにされ、この形式や彫刻も大変希少です。石材は市内の横沢を中心に算出された伊奈石が使用されています。状態が良く、銘文から江戸時代中期の享保一二年(一七二七)にここ瀬戸岡地域の人々によって祀られたことがわかります。地域の人々の信仰を伝える貴重な文化財です。(あきる野市教育委員会掲示より)

珠陽院の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「秋川市史」