瑞雲寺|あきる野市山田にある臨済宗建長寺派寺院

猫の足あとによる多摩地区寺社案内

白華山瑞雲寺|江戸幕府より寺領8石の御朱印状

瑞雲寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の瑞雲寺は、白華山と号します。瑞雲寺は、足利基氏の母(あるいは伯母ともいう)瑞雲寺殿喜渓忻大姉(応安4年1371年没)が開基となり創建、開山に水戸高岡の法雲寺大光禅師復庵宗己を招請したといいます。徳川家康の関東入国に際しては天正19年(1591)寺領8石の御朱印状を受領、足利尊氏坐像など数多くの文化財を所蔵しています。

瑞雲寺
瑞雲寺の概要
山号 白華山
院号 -
寺号 瑞雲寺
住所 あきる野市山田879
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



瑞雲寺の縁起

瑞雲寺は、足利基氏の母(あるいは伯母ともいう)瑞雲寺殿喜渓忻大姉(応安4年1371年没)が開基となり創建、開山に水戸高岡の法雲寺大光禅師復庵宗己を招請したといいます。徳川家康の関東入国に際しては天正19年(1591)寺領8石の御朱印状を受領、足利尊氏坐像など数多くの文化財を所蔵しています。

新編武蔵風土記稿による瑞雲寺の縁起

(山田村)
瑞雲寺
境内寺領の内なり、村の西にあり、禅宗臨済派、郡中小和田村廣徳鰓末、白華山と號す、開基は鎌倉公方基氏の伯母瑞雲寺殿喜渓忻大姉なり、或は云、此尼は基氏の伯母に非ず、母儀なりと、いづれが是なりや、應安四年七月寂せしよし記録あり、此尼當寺造立の時、常州水高岡法雲寺の開山大光禅師復菴宗巳和尚を請待して開山とせり第二世明室證公和尚は公方基氏の二男なりと云へり、されど此和尚應永二年四月十八日年七十二にして化すと云時は、正中元年に生れし人なり、基氏は暦應三年の出生なれば、基氏より長ずること十七年なり、寺傳恐くは誤れりと見たり、此後のことはすべて詳なることを傳へず、小田原北條家分國の頃は、寺領百貫文を寄附せしと云、御入國の後天正十九年十一月、村内八石の地御寄附の御朱印を賜ひしより今もかはらず、
表門。七尺に六尺、東向なり、此門古よりの門なりとぞ、今は扉も損壊してなし、柱棟共に虫ばみて古色なり、屋根は茅葺にていと古質なり、門前に農家二軒あり
本堂。十二間半に六間、本尊彌陀古佛なり、作しれず又足利尊氏・基氏・氏満の位牌あり、高さ二尺八九寸ほど、黒塗にて碑面に文字を彫る、長壽寺殿仁山妙義大居士、瑞泉寺殿玉巌昕公大禅定門、永安寺殿壁山全公大禅定門、堂に瑞雲寺の三字を扁す、開山大光禅師の筆なりと云、寺の字は菴の字のありし上へほりかさねたるものなり、相傳ふ昔は菴室なりしが、其頃掲げし額を、一寺となりし後、菴の字を寺にあらためて、そのまま用ゐしとぞ、古質にしていと殊勝なる額なり又佛前に古物の卓一基あり、長さ四尺許、幅一尺五寸、高さ四尺五寸ほど、黒塗にして唐草を高彫にす、これも額と同時のものなりといへり、
寺寶薬師十二神畫像一幅。絹地にして堅物なり、畫工の名を傳へず、開山大光禅師入唐のとき携来る所なりとぞ、極彩色にて繪のさま至て古色なり、
開山畫像一幅。是も絹地にて極彩色なり、開山の自畫讃なりと云、これも古色にて畫中辨じがたし、
鐘樓。本堂の前にあり、鐘は大さ二尺二寸、元文年中造りしものなりと、
觀音堂。本堂の西にあり、二間四面、東向なり、正觀音の坐像は弘法大師の作にして、瑞雲尼所持の像なりと云、獅子窟の三字を扁額す、これも開山の書なりと云、この堂は天正以来の造立にて、古の堂は今存すれども、調度など蔵め置く所となれり、大さ二間半四面はははだ古色なり、棟札の文左にのす、
棟札一枚。竪一尺五寸、幅四寸五分、
尊氏像。束帯の容なり、座像にして長一尺五寸あまり、厨子にいれて中堂に安せり。
八幡宮。小祠なり
辨天祠。これも小祠、境内東の方にあり、
瑞雲尼墓。本堂の西の方にあり、五輪の塔高さ四尺五寸ばかり、(新編武蔵風土記稿より)

「五日市町史」による瑞雲寺の縁起

瑞雲寺
(山田四九六番地)臨済宗建長寺派に属し、山号を白華山という。寺伝によれば、足利基氏の母(あるいは伯母ともいう)瑞雲寺殿喜渓忻大姉〔古い位牌があり、裏面に基氏の母で応安四年(一三七一)七月十一日に寂したことなどが刻まれている〕が開基となって当寺を創立し、常州水戸高岡の法雲寺開山大光禅師復庵宗己を拝請して開山とした。大光禅師の没年は延文二年(一三五七)であるところから推して、当寺の開創は南北朝期、文和前後の頃であろう。第二世明室証公和尚は、基氏の次男と伝えるが明らかではない。その後小田原の北条氏が寺領百貫文を寄進したと伝え、また天正十九年以来、代々の徳川将軍から御朱印八石が寄せられた。江戸中期頃の記録によれば伽藍も整い、古い位牌・額・什宝の類も相当あったが今は伝わらないものが多く、昭和四十一年九月(一九六六)の台風で本堂兼庫裡も倒壊し、従来の観音堂を暫く仮本堂としていたが、昭和五十年(一九七五)に檀信徒の協力により本堂を再建した。境内地は一、〇〇八坪、本尊は阿弥陀如来、足利尊氏の古い束帯坐像(裏面に「正一位大納言将軍源尊氏公」と墨書されている)一軀あり、また観音堂に安置する聖観音坐像は弘法大師作で、開基瑞雲尼の祈念仏であったと伝えるが、明治三十年代、堂宇焼失の際この像も罹災し、今は焼けただれで残っている。また「長寿寺殿仁山妙儀大居士、瑞泉寺殿玉巌昕公大禅定門、永安寺殿壁山全公大禅定門」と彫られた、足利尊氏・基氏・氏満の古い位牌がある。外に「建武二年七月」(一三三五)と記した高さ一・二メートル幅三〇センチ程の「南無阿弥陀仏」の名号板碑がある。
また、寺の西側に開基瑞雲尼の墳墓と伝える卵塔のような古碑がある。当山の大施餓鬼会は毎年七月十五日に行われている。(「五日市町史」より)


瑞雲寺所蔵の文化財

  • 瑞雲寺板碑一基(あきる野市指定有形文化財)
  • 足利尊氏坐像一基(あきる野市指定有形文化財)

新編武蔵風土記稿による瑞雲寺の縁起

板碑は、鎌倉時代から室町時代にかけて、追善や供養などの目的で作られた石製塔婆の一種です。
この板碑は蓮華台の上に、草書体で「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の称号(名号)が大きく彫られ、その下方中央に「門阿」(供養者名)、右に「建武二年乙亥」(一三三五)、左に「七月廿一日」の文字が刻まれています。
秩父産の緑泥片石が使用され、市内では大型に属し、遺存状態も良好です。(あきる野市教育委員会掲示より)

足利尊氏坐像一基

臨済宗建長寺派に属する瑞雲寺は、南北朝時代に開かれたと考えられています。開基(創立者)は尊氏の子である基氏の母(あるいは伯母)という寺伝がありますが、この像はこの伝承と符号しています。また南朝、北朝にわかれての全国的な戦乱の時代に、当地方が北朝系地侍の地盤であったことを示しています。
制作年代は江戸時代と考えられ、尊氏像はあまり類例を見ないことから希少価値があります。
なお、昭和四〇年代に修復が行われ、彩色が施されています。(あきる野市教育委員会掲示より)

瑞雲寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「五日市町史」