玉龍山金松寺|江戸幕府より寺領8石7斗の御朱印状
金松寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の金松寺は、玉龍山と号します。金松寺は、足利基氏が開基となり康安元年(1361)に創建、俊輪宗心禅師(永享3年1431年寂)が開山したと伝えられ、江戸期には、寺領8石7斗の御朱印状を慶安2年(1649)受領しています。
山号 | 玉龍山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 金松寺 |
住所 | あきる野市下代継340 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
金松寺の縁起
金松寺は、足利基氏が開基となり康安元年(1361)に創建、俊輪宗心禅師(永享3年1431年寂)が開山したと伝えられ、江戸期には、寺領8石7斗の御朱印状を慶安2年(1649)受領しています。
新編武蔵風土記稿による金松寺の縁起
(上代繼村)
金松院
村の東の方にあり、禅宗臨済派、同郡小和田村廣徳寺の末、玉龍山と號す、開山後林は永享二年八月二十四日示寂す、開基は北條左京大夫氏政なりといへり、今按に開基の時代後れたれば、中興の開基なりや詳ならず、本尊聖觀音木の坐像、長一尺七寸、客殿七間に五間、南向なり、慶安二年御朱印八石四斗の寺領を村内にて御寄附ありと云、
熊野稲荷三峯相社。右いづれも合社門を入て右の方にあり、(新編武蔵風土記稿より)
「秋川市史」による金松寺の縁起
金松寺 下代継三四〇番地
山号は玉竜山と号し、臨済宗建長寺派に属している。本尊は聖観世音菩薩である。かつては五日市町小和田の広徳寺の末であった。『新編武蔵風土記稿』 には「金松院」とある。
寺伝によれば、後光厳院(北朝第四代の天皇一二三八~七四)の御宇、康安元年(正平十六年<一三六一>足利基氏により草創され、その後、六世好竹林和尚(天正二年<一五七四>九月六日入寂)の時、甲斐の国の城主大石左京大夫が再建したものであるという。
『新編武蔵風土記稿』は
・・・とある。寺伝と少し異なるが、開基は基氏としても、中興に力をつくしたのは、甲斐の大石左京大夫というはっきりしない城主より、同じ左京大夫でも北条氏政の方が真に近いであろう。
開山は『新編武蔵風土記稿』は「後林」としているが、俊輪宗心禅師(永享三年<一四三一>八月二十四日示寂)である。ただ俊輪宗心禅師は五日市町小和田の広徳寺と関係があったことはまちがいないであろうが、『建長寺史 末寺篇』による広徳寺の世代表には、その名がみえない。
金松寺は慶安二年(一六四九)には、三代将軍家光公より、御朱印八石四斗(『新編武蔵風土記稿』による。『建長寺史 末寺篇』には八石七斗とある。)を受領したのである。(「秋川市史」より)
金松寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「秋川市史」