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猫の足あとによる多摩地区寺社案内

深大寺|調布市深大寺元町にある天台宗寺院、天台宗別格本山

深大寺の概要

天台宗寺院の深大寺は、浮岳山昌楽院と号します。深大寺は、満功上人が天平5年(733)に堂宇を建立、750年に深沙大王像を安置して創建したと伝えられます。その後武蔵国司蔵宗の乱降伏祈念に際して朝廷の命を受けた比叡山の恵亮和尚が、道場として天台宗に改め、991年には元三慈恵大師が自刻像を当寺にうつしたといいます。江戸時代には寺領50石の御朱印状を拝領、現在天台宗の別格本山に列格、多摩川三十三ヶ所観音霊場客番札所、調布七福神の毘沙門天です。

深大寺
深大寺の概要
山号 浮岳山
院号 昌楽院
寺号 深大寺
本尊 弥陀三尊佛
住所 調布市深大寺元町5-15-1
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
縁日 だるま市3月3・4日
備考 天台宗別格本山



深大寺の縁起

深大寺は、満功上人が天平5年(733)に堂宇を建立、750年に深沙大王像を安置して創建したと伝えられます。その後武蔵国司蔵宗の乱降伏祈念に際して朝廷の命を受けた比叡山の恵亮和尚が、道場として天台宗に改め、991年には元三慈恵大師が自刻像を当寺にうつしたといいます。江戸時代には寺領50石の御朱印状を拝領、現在天台宗の別格本山に列しています。

新編武蔵風土記稿による深大寺の縁起

(深大寺村)深大寺
村の中程より南に寄てあり。今寺領50石の御朱印を賜ふ。天台宗、東叡山の末、浮岳山昌楽院と号す。天平5年の建立にて、開山は満功上人なり。古は法相宗なりしが、貞観年中恵亮和尚住職の時改宗せしと云。慶安3年の2月第五十七世弁盛上人の記せし縁起あり。其の文の略に、聖武天皇の御宇当所柏野の里と云は、今の佐須村のことなりしとぞ。其里に右近某と云長者あり。狩猟をこのみて鳥獣そこはくの生命を害せり。曾て妻女を求めんとして、普く遠近を尋けれども、心に協ひし者を得ず、ある時いつこともなく一人の女来りて、やとの妻とならんことを請ふ。その名を問へば虎と云と答ふ。天成霊質ありて百美自ら備れり。己に夫婦となりてより、常々夫を諌て殺生の業因の甚きことを諌む。ここに於て少しくそのことを信じて殺業を止たり。その後一女を生む。巳にして年十二三に及ぶ比、たまたま童子福満と云者ありて、かの童女を慕ひ、しはしは文書をよせしかば、終に密通の識を得たり。この福満もと誰か家の子と云ことも知らざりしかば、父母かなしみにたへずして、禁ずれどもやまず、ここに於て湖中の鳥をたづね、宮室を営みて童女をかしこへ移り住しむ、童子これを知りて尋至らんとせしかど、船筏なければその所に渡るべからず。よりて三蔵玄奘師の流沙河を渡られし古を思ひ、水神深砂(或は真蛇)大王を祈りて誓へるは、もしわれ湖水を越ることを得ば神明を崇め祭りて、長く湖水の主とし、且当郷の鎮守と仰ぎ参らせんと誓ひしに、丹心空しからず、忽ち霊亀浮み出ければ、それに乗して難なく島に至りけり。双親かの善神の冥助あることを感じて、ついに婚姻のことゆるしけり。程へてひとりの男子を儲けたりしに、いと聡明にして天機発越せり。長ずるに及んで大夫語て云、我昔大願ありしが未果さず、汝早く釋門に入て父母の恩を報ぜよと。ここに於て薙髪して南京に至り大乗法相を学び、広く白法の深義を窮めて本国にかへり、ついに当山をひらく。満功上人これなり。孝謙天皇天平勝寶2月17日の暁、神水中の岩上に降ります、是寅月寅日時なり、然りしよりこのかた寅の日を以て当寺の吉日とす。その岩は今逆川にありしとぞ。然れ共其尊容いかんなること知らざりしが、たまたま新羅より船来の画像ありければ、これを法とし彫せんとせしが、又霊木を得ざるを憂ひけり。然るに夜中に声ありて告を蒙り、近きほとりの多摩川につひて浮木をもとむ。これを見るに桑木三條なり、採かへりて一刀三禮し同体三尊を刻しに、同7月3日成就せり。これを武野羽の三州に分ちて崇めまつれり。その一は則当寺境内に祀るもの是なり。廃帝の御宇、願ひによりて勅額を浮岳山深大寺と賜へり。依て大般若経を転読せしめらる。これを永式として、鎮護国家の道場となる。平城天皇御宇、更に勅して四海安康を祈誓せしめらる。清和天皇貞観年中、当国の国司蔵宗叛逆の聞えありし時、恵亮和尚に勅して密に幽伏の法を修せしめられ、和尚勅をうけて当国に遊び、国分寺に至りて勝地を求め五大明王を本尊として調伏護摩の法を修しければ、忽凶徒降伏せり。帝大にめでさせ玉ひて、当山を賜ひ、且寺領として七邑を寄附せらる。世に深大寺七村といへり。かくて和尚は当山の寺務を以の故に相宗を改て永く台教の宗門に帰せり。是より以来燈々相傳へて繁盛、他寺に異なり、しかのみならず源家の祈願所として東国第一の密場たり、別当大行寺十二坊、無常道場別所等いよいよさかんなり。又傳ふ、この後当寺えあづかりし皃童のことによりて、その父鎌倉将軍の家人たりしが、寺門へ乱入して放火せしにより、堂塔以下悉く灰燼となり、さばかりの仏閣一時に廃亡せり。遥の後世田ヶ谷吉良家、当時の衰廃を歎き、やがて再興ありて、当郷を以て供料に充て、且並平行安が造し太刀を内宮に納められしにぞ。再び寺門の面目をぞ施しける。然るに天正18年小田原北条家滅亡の時、世田ヶ谷も共に没落せしかば、ふたたび当寺も危ふかりしに、東照宮守護不入の御判物を賜ふと云々。その後正保3年の春回祿にあひて、経琉・霊佛・霊宝及諸梵記・縁起等ことごとく烏有となれりと云々。今の堂宇は皆この後の再建なり。(新編武蔵風土記稿より)

「調布市百年史」による深大寺の縁起

深大寺
浮岳山昌楽院、深大寺と号し、天台宗。
<開山>天平五年(七三三)満功上人
<本尊>弥陀三尊仏(恵心僧都作)
中央 宝冠阿弥陀如来(木坐像、二尺七寸)
脇士 観音勢至(各木立像二尺三寸)
この寺は開山当時、法相宗に属していた。ほぼ一〇〇年後の貞観年中(八五九~八七五)、ときの武蔵国司蔵宗の乱があり、朝廷ではその降伏祈念のため、天台の高僧恵亮和尚を東国に遣わされた。和尚はこの深大寺を道場として修法を行ない、乱平定に尽くした。その後、功によって近隣七カ村を寺領とし、深大寺を賜わり、そのときから天台宗に改められた。
以来、法燈相伝し、正暦二年(九九一)には天台座主元三慈恵大師の衆生済度の大悲願によってつくられた自刻像を、大師の高弟慈忍和尚、恵心僧都などが、東国化導のためこの寺に移した。のち、源家の尊敬と信仰を受け、ますます栄え、ついに台教密教の関東第一の道場として、その威を誇るようになったが、鎌倉武士との争いに端を発し、堂塔以下ことごとく灰燼に帰し、さしも威容を誇った寺も、一時に衰亡し、荒廃してしまった。
室町時代になって小田原北条氏の家臣、吉良頼康が、世田谷領主としてこの地方を治めたが、寺の衰廢を歎き、伽藍を再興、寺領の増加をはかるなど復興に尽くした結果、ふたたび寺門の面自を施した。その後の戦国騒乱の世にも安泰に過ごすことができたが、天正一八年(一五九〇)小田原北条氏滅亡のとき、吉良氏もともに没落したため庇護者を失い、ふたたび寺運の危機を迎えた。
しかし、徳川家康から守護不入の判状と寺領五〇石を与えられ、難を避けることができた。ところが、正保三年(一六四四)(寺発行の案内書による。ある書には正徳三年-一七一一ーとある。)、慶応元年(一八六五)の二度にわたる大火に、戦国時代を支えてきた寺域内の主要建造物の大部分を失い、現在の建物の多くは、近世再建のものである。
以上は、寺の資料によるものであるが、現在、寺域内のおもな文化財をあげると、次のとおりである。
<山門>
南向きで両控作。丸柱二聞に一間半の草ぶき、朱塗りである桃山式建築で二度の火災にも難を免れた。
<鐘楼と梵鐘>
山門の右側にある。梵鐘(前出)は都指定文化財。
<本堂>
南向きで、江戸期の作風をもち、深大寺の扇額を掲げている。堂内に本尊および金銅製の釈迦如来倚像が安置されている。この釈迦如来像が国宝白鳳仏で、関東地方所在の仏像中最古のものである。
この仏像は、その価値を知られず、大師堂内に置かれていたものを、明治二〇)年代、梵鐘調査のため来寺した博物館員によって発見され、その価値が認識された。しかし、なぜ深大寺にもたらされたかについては明らかでない。
庫裡・書院・茶屋などは、本堂に向かって右へ続いている。
<常香炉・覆屋>
本堂前の小楼である。江戸中期のものといわれ、その北側(本堂側)はかつての火災の痕跡を残している。
その他境内には、念仏供養塔・敷石供養塔・キリシタン燈籠などがある。
<元三大師堂>
本堂の西、五大尊池を隔て、一段高いところにある。
堂は山門についで古いもので、慶応三年(一八六七)の建立、大師の自刻像と、天平勝宝七年(七五五)に満功上人がつくったと伝えられる秘仏、深沙大王像が安置されている。草ぶきの建物で、廊下の天井に、河鍋暁斎の描いた竜が雄渾な筆跡を残している。暁斎が描いた壁画の中でも傑作といわれているものである。
<五大尊石>
大師堂北の山ぎわ、清泉の中にあって、ここの水はいかなる旱魃にもかれることがないといわれ、雨乞いに使われた。
<亀島弁才天祠>
門外西の池の中にある。縁起にいう、福満童子を背負って渡したという霊亀を祭ってある。
<大黒天・毘沙門天祠>
同じ池の中にあり、両者を合祀してある。
<深沙大王堂記念碑>
かつて深沙大王祠のあったところ。明治初年、神仏混淆が禁止されたおり、大王尊像は大師堂に安置して堂宇は廃されたが、里人がこれを惜しんで建立したものである。今また、この場所に堂宇建設中で、近く完成の予定である。
<万霊塔>
昭和三七年三月、動物愛護の人々の手によって完成されたもので、後ろの丘の上に建っている。六根(一面一メートル)三三法輪、高さ三〇メートルの塔である。
<不動堂・滝修行場>
庫裡の東方にある。不動堂は不動明王が安置され、滝修行場には、一対の竜頭より滝の落ちるようになっている。
近年のものとして知られているのは、篠原温亭の句碑・金原省吾の歌碑・高浜虚子像・小堀画伯供養塔などである。
そのほか、絵馬堂・塔・仁王門などがあったといわれるが、その位置さえも正確に知ることができず、地名に絵堂・御塔坂・仁王塚などの名を残すのみである。
『江戸名所図会』は、この仁王塚について、鎌倉武士の一子が仁王門のあたりで遊んでいたが、急に見えなくなり、付人や里人が探したがわからず、ただ仁王尊の唇にその子の衣服の端が残っていて、子供を呑んでしまったように見えた。そこで怒った里人が像を壊して埋めてしまったとの伝説あり、と記している。
深大寺といえば、必ずといってよいほど「だるま市」と「深大寺そば」が口にされ、その森は都内に少ない武蔵野の面影をとどめている。(「調布市百年史」より)


深大寺所蔵の文化財

  • 銅造釈迦如来倚像(国指定重要文化財)
  • 梵鐘(国指定重要文化財)
  • 深大寺山門(調布市指定有形文化財)
  • 深大寺境内・深沙大王堂跡記念碑(調布市指定有形文化財)
  • 深大寺深沙大王堂内宮殿(調布市指定有形文化財)
  • 河鍋暁斎の天井画(調布市指定有形文化財)
  • 深大寺中横合狼藉禁止の朱印状(調布市指定有形文化財)
  • 武陽多麻郡浮岳山昌楽院深大寺縁起(調布市指定有形文化財)
  • 深大寺慈恵大師坐像(調布市指定有形文化財)
  • 深大寺毘沙門天立像(調布市指定有形文化財)
  • 深大寺元三大師参詣の道標(調布市指定有形文化財)
  • 文明十六年銘胎蔵界大日板碑(調布市指定有形文化財)

深大寺の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿