雲松山泉龍寺|良弁僧正の雨乞いにより湧き出た霊泉
泉龍寺の概要
曹洞宗寺院の泉龍寺は、雲松山と号します。泉龍寺は、当村の地頭石谷十郎左衛門政清(天正2年没)が開基となり、鐵叟瑞午(慶長17年遷化)を開山に迎え創建、江戸時代には寺領20石の御朱印状を拝領していたといいます。当寺には和泉地名の発祥となった弁財天池があり、良弁僧正が雨乞いにより湧き出た霊泉だといいます。
山号 | 雲松山 |
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院号 | - |
寺号 | 泉龍寺 |
住所 | 狛江市元和泉1-6-1 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | 泉龍寺別院 |
備考 | - |
泉龍寺の縁起
泉龍寺は、当村の地頭石谷十郎左衛門政清(天正2年没)が開基となり、鐵叟瑞午(慶長17年遷化)を開山に迎え創建、江戸時代には寺領20石の御朱印状を拝領していたといいます。
新編武蔵風土記稿による泉龍寺の縁起
(和泉村)泉龍寺
境内一萬六千九百坪、御朱印地なり、村の東より中程なり、雲松山と號す、曹洞宗、相州高座郡遠藤村寳泉寺の末、御朱印二十石、開山鐵叟瑞午慶長十七年十一月九日遷化、開基は此村の地頭石谷十郎左衛門政清、天正二年四月十五日死せり、是によりて按ずれば、御打入の前より此所を領せしや詳ならず、下の舊蹟あはせみるべし、客殿十一間に六間半南向、二間に九尺の向拝を造れり、本尊釈迦木の坐像一尺餘なるを安せり、この外に地蔵一軀あり、これは木の坐像臺座共一尺五寸許、厨子に入たり、安永年中より近村の民信心のあまり、この像を己が宅へうつして祈念せしことありしに、其しるしありしかば傳へきき、今は江戸にても己々が家に迎へて祈念せり。されは月の二十三日といへるにここへ帰るのみにて、其他は都鄙を巡行せりと、外に辨天一軀を本堂に置けり、當時の世代のうちに長辯といへるの作なりと。
鐘楼。境内にあり、九尺四方楼作り高さ一丈餘、鐘の大さ一尺五寸、高さ二尺許、考証に便りなけれども、慶安年間の銘なれば全文をのせたり。(銘文省略)
御嶽秋葉稲荷合社。客殿の後背にあり、神軀白幣。
天満宮。これも同じ邊にあり、神体白幣を立つ、わづかなる祠。
鳥明神社。同じ邊にあり、疱瘡守護神を祭れり、神体白幣をたつ。
白山社。表門の右の傍にあり、社は三尺北に向えり、神体白幣境内の鎮守なり。
辨天社。同じ邊に周径十間餘の池あり、そこに安せり、石をもて造れる三尺に二尺五寸の祠なり、西向、神体白幣。
経塚。本堂より一町半餘、西北の間にあり、則境内なり、寺僧相傳ふ、前代良辯といへるが経文を納めたる所なりと、されど村内に大なる塚十三四あり其内をいつの比か切崩せしに、中より朽たる鐵又は甕の類を得たりと云ことあり、恐くは昔し居住せる人の墳墓なりしやと土人は云へり。(新編武蔵風土記稿より)
泉龍寺所蔵の文化財
- 泉龍寺弁財天池(狛江市史跡)
泉龍寺弁財天池
この池は、市民に「しみず」という名で親しまれています。
「和泉」という地名もこの池からうまれたものと推定されます。
伝説によると、今から約千二百年以上も前の奈良時代に全国的な大旱魃があり、東大寺開山として有名な良弁僧正がこの地において雨乞いを行ったところ、竜神が現れて雨を降らし、その時に水が湧き出したということです。旧「和泉村」の雨乞いの行事をする霊泉として信仰を集めてきました。池の中島には元禄六年(一六九三)にできた石の祠があり弁財天がまつられています。
いつの旱魃にも涸れることなく、その豊富な水量で下流の水田の灌漑用水に利用されてきましたが、昭和四十七年十一月に涸れつきてしまいました。昭和四十八年三月十二日に、狛江市史跡第一号に指定され、復元工事が行われました。(境内掲示より)
泉龍寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿