神明社(柳窪)|柳久保新田を開発した元文元年創建
神明社(柳窪)の概要
神明社(柳窪)は、東久留米市南町にある神明社です。神明社(柳窪)は、柳久保新田(柳窪新田)の開発に際して元文元年(1736)に創建、明治12年村社に列格していたといいます。
社号 | 神明社 |
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祭神 | 天照皇大神 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 東久留米市南町2-3-17 |
祭日 | - |
備考 | 柳久保新田の鎮守 |
神明社(柳窪)の由緒
神明社(柳窪)は、柳久保新田(柳窪新田)の開発に際して元文元年(1736)に創建、明治12年村社に列格していたといいます。
新編武蔵風土記稿による神明社(柳窪)の由緒
(柳久保新田)大神宮
除地、二畝二十四歩、村の中央にあり。覆屋一間半に二間、中に一尺四方の祠を置。南向、例祭は九月十六日、村内の鎮守にて百姓持。(新編武蔵風土記稿より)
北多摩神社誌による神明社(柳窪)の由緒
元文元年創立と伝わる。徳川幕府享保、元文年間武蔵野の新田開発を行うにあたり、玉川上水をこの地に引き、柳窪新田を開発した。明治十二年一月、村社に列せられる。現本殿の建立は、文久元年と記されている。昭和四十三年九月、本殿上屋、および拝殿を新築した。(北多摩神社誌より)
東久留米市史による神明社(柳窪)の由緒
『新編武蔵風土記稿』には、
大神宮 除地、二畝二十四歩、村の中央にあり、覆屋一間半に二間、中に一間四方の祠を置、南向、例祭は九月十六日、村内の鎮守にて百姓持
と記され、大神宮と呼ばれていたようであるが、文政一二年(一八二九)に氏子中より奉納された幟には「神明宮」と書かれているので、一般的には神明宮であったのだろう。社殿は、拝殿は明治五年に建てられているが、本殿は、覆屋内に祭られた一間社流造りで、総﨔造、皿斗の付いた斗栱形式、海老虹梁の絵様からすると、江戸末期ごろの形式である。本殿の基壇石の一つに、「当村世話人、秋田宗兵衛、遠藤彦八、惣氏子中、文久元酉年九月吉日」と刻られ、本殿再建時に積んだものとみられるので、再建したのも、このころと見てよいであろう。(東久留米市史より)
神明社(柳窪)の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 北多摩神社誌
- 東久留米市史