諏訪神社|桜井利兵衛氏が勧請
諏訪神社の概要
諏訪神社は、東村山市諏訪町にある神社です。諏訪神社の創建年代は不詳ですが、当地の桜井利兵衛氏が勧請したと伝えられ、徳蔵寺に当てた文書に貞享2年(1685)とあることから、貞享2年(1685)に創建したといわれています。化成小学校建設に当り、現在地へ遷座、昭和初期に浅間神社を合祀しました。
社号 | 諏訪神社 |
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祭神 | 建御名方命 |
相殿 | - |
境内社 | 浅間神社 |
住所 | 東村山市諏訪町1-4-3 |
祭日 | 8月26・27日 |
備考 | 八坂神社の兼務社 |
諏訪神社の由緒
諏訪神社の創建年代は不詳ですが、当地の桜井利兵衛氏が勧請したと伝えられ、徳蔵寺に当てた文書に貞享2年(1685)とあることから、貞享2年(1685)に創建したといわれています。化成小学校建設に当り、現在地へ遷座、昭和初期に浅間神社を合祀しました。
新編武蔵風土記稿による諏訪神社の由緒
(野口村)諏訪社
社地、80間四方程、小名西宿にあり。その所の鎮守なり。勧請の年代をしらず。社に覆屋あり、東向なり。神体は木像にて長1尺ばかり。例祭7月27日にて、徳蔵寺の持なり。(新編武蔵風土記稿より)
北多摩神社誌による諏訪神社の由緒
創立由緒は不詳であるが、曹洞宗徳蔵寺が別当であった。「社寺台帳」に記す「社伝」によると、「貞享二丑年四月十一日当村小字實来櫻井利兵衛なる者徳蔵寺エ神像本社並ニ山林壱町歩ヲ寄附セシ者古証存在明治九年迄徳蔵寺カ管理シ来リ候」とあって、實来の櫻井利兵衛の寄進におこるものである。(北多摩神社誌より)
境内掲示による諏訪神社の由緒
野口実来(つぶれや)に、前川の洪水の時、流れ着いた御神体を、大紋廻(おおせど)と字名で呼ばれる桜井利兵衛(現桜井長寿氏方の先祖)がお祀りして、古くは諏訪明神と言われて来た。貞享2年に、六反歩の境内地と共に、西宿部落(現諏訪町)の鎮守様として寄贈した、と代々桜井家に言い伝えられて来た。寄贈の年月日は詳でないが、利兵衛氏より徳蔵寺に当てた、諏訪明神関係の古文書に、貞享2年丑ノ四月十一日と銘記しており、この日付に近い時期だと推定される。(右は桜井裕久氏の文献及び口述に依る)
明治の世代になり、神仏判然令が施行されるまで、永く徳蔵寺の管理下にあり、昔は素晴らしい杉林であって、現在の徳蔵寺本堂は諏訪神社の杉材にて建立されたと伝えられて居る。例祭に立てる大幟は、徳蔵寺十七世住職朝木蒨渓師が、文久元年に書いたもので、幟の建石は、文久元年七月願主清水市良衛門、清水岩次郎、清水助右衛門が納め、二基の石燈籠は、明治二十一年五月桜井家の子孫宇重郎氏が奉献したものである。その後台石等破損したので、昭和42年12月宇重郎氏の孫裕久氏に改修して頂いてある。
拝殿に向って左側に小祠がある。浅間神社で側面に天保十三年三月西宿中と刻んである。市の指定文化財に指定されて居る境塚(浅間塚とも言う)の頂上に祀られて在ったものを昭和の初め合祀したのである。明治7年学制施行後、化成小学校建設に当り境内の大部分を敷地に提供して、現在の処に移したのである。明治年代から大正十四年迄、毎年九月九日・十日が例祭日であったが、季節が二百二十日で毎年のように降雨に見舞われるので、九月二十六日・二十七日に変更、二年間続いたが、その頃晩秋蚕飼育が盛んになり、丁度上蔟期になるので、再び八月二十六日・二十七日に更えて今日に至る。
古老の言い伝えによると、明治の中頃は、例祭日にはよしづを張り廻らせた、水茶屋等も掛り、非常な賑わいを呈したと聞くが、明治末期から、大正・昭和と、大きな舞台を掛け、野火止・竹間澤・中福等の神代神楽師を招き、祭ばやしと共に、お神楽を奉納したのである。昭和二十二年平和音頭の踊りが流行して氏子の婦人達が奉納したのが始まりで、現在も奉納の踊りに、祭りばやしを織り込んで奉納している。(境内掲示より)
諏訪神社所蔵の文化財
- まつり囃子(東村山市無形民俗文化財)
諏訪神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 北多摩神社誌(北多摩神道青年会むらさき会)