中里の富士塚|清瀬市中里の名所旧跡

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中里の富士塚|火の花祭り・清瀬10景

中里の富士塚の概要

中里の富士塚は、清瀬市中里にある名所旧跡です。中里の富士塚は、江戸時代中期に成立した中里富士講が、文政8年(1825)に富士塚を再築、明治7年(1874)更に塚を3mかさ上げされ、現在は約9mの高さを持つ富士塚です。現在も中里富士講により護持され、毎年9月1日には盛大な「火の花祭り」(市指定無形民俗文化財)を開催、中里の富士塚は東京都有形民俗文化財に指定され、清瀬10景の一つともなっています。

中里の富士塚
中里の富士塚の概要
名称 中里の富士塚
みどころ 都指定有形民俗文化財
入場時間 -
入場料 -
住所 清瀬市中里3-991-1
備考 -




中里の富士塚の由緒

中里の富士塚は、江戸時代中期に成立した中里富士講が、文政8年(1825)に富士塚を再築、明治7年(1874)更に塚を3mかさ上げされ、現在は約9mの高さを持つ富士塚です。現在も中里富士講により護持され、毎年9月1日には盛大な「火の花祭り」(市指定無形民俗文化財)を開催、中里の富士塚は東京都有形民俗文化財に指定され、清瀬10景の一つともなっています。

東京都教育委員会掲示による中里の富士塚について

東京都指定有形民俗文化財
中里の富士塚
九嘉講武州田無組中里講社により、柳瀬川右岸の段丘縁辺地に築かれた文政八年(一八二五)再築という伝承や、頂上の石祠に同年の銘があることなどから文化文政年間(一八〇四~一八三〇)の築造と考えられる。明治七年(一八七四)に三m程かさ上げされ、周囲よりの高さは約九mである。
北側の鳥居を潜ると登山道が九十九折りに続く。途中一合目から九合目までを記した小さな石柱がある。山頂には文政八年の石祠と、大日如来を刻む石碑が建つ。この石祠は富士山頂の「仙元大菩薩」の社を祀ったもの。中腹には、富士山五合目に祀られる「小御嶽神社」の碑がある。少し下った先には、富士講が往路に参詣する「高尾山阿闍梨明王」の碑。その中間には、帰路に詣でる「道了大薩埵」の碑が建つ。
富士信仰に関する石造物を具備する一方、今日でも富士登山や火の花祭りなどの講行事が継続されている。また金山赤土で、一般の富士塚に見られる溶岩は一切使われていない。舟運に依存できない内陸地域の富士塚の、典型的な様式を示している。なお、講に関する中里九嘉講関係資料が附として指定されている。初期の富士塚として、また江戸後期に武蔵野に進出した富士講の活動を知る上で重要である。(東京都教育委員会掲示より)

清瀬市教育委員会掲示による中里の富士塚について

市指定無形民俗文化財
中里富士塚
富士山を崇め、登山を通じて修業する富士講が江戸時代中期から流行し、各地に富士塚が構築されました。
中里富士講は享保一八年(一七三三年)江戸赤坂善行道山より田無村を経て中里村の先達に「お伝え」が送られ講が成立しました。以後、武州田無組丸嘉講社の一つとして、代々の先達と講中の努力により隆盛を見ました。
記録によるとこの富士塚は次のようになっています。
〇初代先達のとき富士浅間の末社を立つ
〇文政八年(一八二五年)御山を再築し、石の宮に改築す。
〇明治七年(一八七四年)七尺五寸(約二m二五cm)高くし小御岳、身禄、宝永山、頂上薬師、金毘羅、小室浅間、鈴原様等を建てる。
〇明治三十五年(一九〇二年)山を修復し、杉・桧苗数十本を植える。
毎年九月一日には盛大な「火の花祭り」(市指定無形民俗文化財)が行われ、講社としての富士講も健在で、信仰の対象としての富士山を今に伝える貴重な富士塚です。(清瀬市教育委員会掲示より)

清瀬市掲示による中里の富士塚について

清瀬10景
中里富士山
中里富士山は、富士山を信仰する人々の集まりである富士講によって江戸時代文化年間頃築かれたといわれ、高さが約10m、東京都の有形民俗文化財に指定されています。
毎年9月1日には、ここで、東京都指定無形民俗文化財である中里の「火の花祭り」が行われます。
この行事は、講中が富士塚で経文を唱えたあと、円錐形の麦わらの山に火がつけられ、その火にあたり、灰を家に持ち帰って門口にまくと火災除けや魔除けになり、畑にまくと豊作になると伝えられているものです。(清瀬市掲示より)


中里の富士塚の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿