光明院|三光院の兼務寺
光明院の概要
真言宗豊山派寺院の光明院は、福聚山と号します。創建年代は不詳ですが、中世には既に創建されており堂舎の建ち並ぶ大寺だったものの、新田義貞の鎌倉攻めの際に兵火に罹り荒廃したと伝えられます。江戸期には青梅村金剛寺末と記載されていますが、現在三光院の兼務寺となっており、地元の方たちにより管理されています。
山号 | 福聚山 |
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院号 | 光明院 |
寺号 | - |
住所 | 東村山市廻田町3-12-27 |
本尊 | - |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 三光院の兼務寺 |
光明院の縁起
光明院の創建年代は不詳ですが、中世には既に創建されており堂舎の建ち並ぶ大寺だったものの、新田義貞の鎌倉攻めの際に兵火に罹り荒廃したと伝えられます。江戸期には青梅村金剛寺末と記載されていますが、現在三光院の兼務寺となっており、地元の方たちにより管理されています。
新編武蔵風土記稿による光明院の縁起
光明院
境内年貢地、5畝許。村の中央小名鍛冶屋にあり。日向山と号す。新義真言宗にて郡中青梅村金剛寺末、本堂6間四方南向。本尊不動の坐像、長1尺許なるを安ず。智證大師の作と云。秘佛なりとて人の見ることをゆるさず、此寺古へは大寺なちろいへど、今は住持もなきほどにおとろへたれば、開山開基も詳ならず。下に載する所の薬師堂・石薬師など、此寺の持なりしが、いつの比よりか村民の持となりたりと云。本堂の右の方に古碑あり。表に読妙経一百三十六部、応永13年丙戌16日とありて、左右にあまたの法謚をえれり。又外に古碑3基あり。2基は康永2年、1基は永徳2年3月27日。
薬師堂
見捨地。村の中央より少しく北へよりてあり、東光庵と号す。勧請の年代詳ならず、是を日向薬師とよぶ。堂は3間に3間半南向。本尊長3尺許坐像なり。左右に十二神を安す。下にのする所の石薬師は、古へ此堂のありし所なりと云。いつの比ここへ移せりしや詳ならず。村民の持なり。
鐘楼
境内にあり、9尺四方、鐘の径2尺1寸、寛政3年の真鋳なり。
石薬師
年貢地、5坪許。小名日向の畑中にあり。前の薬師堂古へ此所にありしが、いつの比か堂をばうつして、その跡に此石薬師をのこせり。形箕のごとく、長1尺幅5寸許、石龕の内に安ず。上屋3尺四方、霊験甚いちじるしとて村民等忝敬せり。又云古へ此所に大梵刹ありと。そもあるにやこの邊の田園より、まま布目の瓦などほり出す事あり。(新編武蔵風土記稿より)
金山神社社寺委員会掲示による光明院不動堂について
江戸時代に記された「新編武蔵風土記稿」には「村の中央の鍛冶屋というところにあり、日向山光明院と呼ばれる。新義真言宗にて、多摩郡青梅村の金剛寺の末寺となっている。本堂は、6間四方の南向で、本尊は、高さ1尺の不動の坐像で、智證大師の作といわれる。この仏像は秘仏で見ることはできません。この寺は古へは大寺なりというが、今は住持もないほどにおとろえている。開山開基も詳しくはわからず、下に掲載する薬師堂・石薬師などもこの寺の持であったが、いつの頃か村民の持となったと言い伝える。(後略)」と書かれ、詳細は定かではありませんが、現在の多摩湖町あたりにあった大伽藍の寺であったとの伝承もあります。
また明治時代の「狭山の栞」には、「日向山光明院瑠璃光寺」と寺の名前も見え、瑠璃光寺の名の由来は、薬師如来の東方瑠璃光浄土にちなむもので、この場所に建てられた峯薬師堂との関係が考えられます。(金山神社社寺委員会掲示より)
光明院所蔵の文化財
- 木造薬師如来立像(東村山市指定有形文化財)
- 応永の板碑(東村山市指定有形文化財)
- 廻田安産子育地蔵
- 石造地蔵菩薩像
- 不動明王および二童子像
- 大日如来立像
木造薬師如来立像
檜材を用いた割矧ぎ造りの像で、肉身部素地・着衣部黒漆塗り仕上げ。玉眼を嵌入し、肉髻珠・白毫珠は各水晶製。像高77.5cm。通称を「峯薬師」といい、地元の信仰を集めています。
元弘3念(1333)の新田義貞の鎌倉攻めの際に戦火にあって焼きだされたという伝説があり、その姿には、中世彫刻特有の写実的な造形感覚が認められ、十三世紀後半の制作と推測されます。
この峯薬師は、ここから近い場所にあった薬師堂に阿弥陀如来立像と不動三尊像とともに安置されていましたが、事情により薬師堂が取り壊され、長く故人宅で保管されていました。
今回地域の人々の尽力で、この光明院不動堂の境内に薬師堂が建てられ、峯薬師も修理されて阿弥陀薬師立像と不動三尊像とともに改めて安置され末永く保存されることとなりました。(東村山市教育委員会・山神社社寺委員会掲示より)
応永の板碑
板碑は鎌倉時代から戦国時代にかけての中世に建てられた供養のための碑で、石材は緑泥片岩という秩父長瀞を産地とするものです。
この応永の板碑は中央に「□読妙経一百三十六部」と刻まれ、法華経信仰を同じくする多くの人々によって応永十三年(1406)に建てられた「法華経読誦塔」で「結板碑」ともよばれます。
現在は数片に割れて欠落した部分も多くありますが、復元すると高さは4メートル近くあり都内でも最大級の板碑で、これだけ大きな石を運び建てることは容易なことではなかったと思います。また碑面に刻まれた法名は現在数十名残され、当初は100名以上かと思われます。
この板碑によって、応永13年という昔に東村山を中心として大きな法華経信仰の集団があり、信仰の証としてこれだけの碑をたてる力が有ったことがわかります。
文献の少ない中世の東村山を知る貴重な資料です。(東村山市教育委員会掲示より)
廻田安産子育地蔵
安産子育地蔵は、現在の薬師堂の場所に祀られていましたが、平成19年に同堂の建設により、現在の場所に移設されました。地蔵の台座の銘文によれば、享保3年(1714)に廻田村の村人が、寒念仏供養のため建立したことが分ります。寒念仏とは、寒中に念仏を唱和しながら鉦を叩いて回ったり、お堂で和讃や念仏を唱える行のことです。
この地蔵菩薩は、いつの頃からか安産を祈願するとご利益があるといわれてきました。妊婦はこのお地蔵さまに巻かれた赤い腰巻を借りて身につけていると、安産で丈夫な子どもが授かるといわれています。願が叶った人は、価値ら腰巻を返し、お礼に新しい腰巻を地蔵に奉納しました。戦前は多くの人が参詣に訪れ、お堂には、赤い腰巻がいっぱいに下がっていたそうです。今ではその奉納もなくなりましたが、子供の成長を願う安産子育地蔵の信仰は地元の人々の間で現在も続いています。(金山神社社寺委員会掲示より)
光明院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿