龍華山真福寺|狭山三十三観音霊場、多摩八十八ヶ所霊場
真福寺の概要
真言宗豊山派寺院の真福寺は、龍華山清浄光院真福寺と号します真福寺は、和銅3年(710)、行基が創建、承久2年(1220)に落雷によって焼失したと伝えられ、 その後龍性法師(または瀧性法師、正応3年1290年寂)が中興したといいます。江戸時代には寺領20石の御朱印状を拝領していました。狭山三十三観音霊場20番、多摩八十八ヶ所霊場42番です。
山号 | 龍華山 |
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院号 | 清浄光院 |
寺号 | 真福寺 |
住所 | 武蔵村山市中藤1-37-1 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
真福寺の縁起
真福寺は、和銅3年(710)、行基が創建、承久2年(1220)に落雷によって焼失したと伝えられ、 その後龍性法師(または瀧性法師、正応3年1290年寂)が中興したといいます。江戸時代には寺領20石の御朱印状を拝領していました。
新編武蔵風土記稿による真福寺の縁起
(清水村)真福寺
小名萩尾にあり、真言宗新義、醍醐三寶院の末、龍華山清浄光院と號す、寺領二十石の御朱印を賜はれり。客殿六間に十二間東向に立、本尊薬師木の坐像長八寸、開山瀧性法師正應三年十一月寂す、山門二間に四間、上に洪鐘を掛、寛永十五年三月鋳しものなり、願主は市野孫左衛門尉貞織と刻せり、鐘のわたりは二尺五寸なり。
八幡祠。客殿の南の方にあり。
天満宮。東の方へ一町程隔てゝあり、上屋一間半四方、拝殿二間に三間を造りそへり。
観音堂。南の方にあり、三間四方、本尊彌陀立像にて二尺二寸許、左右に銅の百観音を安す。
寺寶。
不動幷兩童子画像三軸、弘法大師筆。
毘沙門ノ画像一軸、僧覺範筆。
天竺阿育王自筆像一軸。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による真福寺の縁起
龍華山清浄光院真福寺と号し、奈良時代和銅三年(七一〇)、行基によって創建され、その後、承久二年(一二二〇)に落雷によって焼失したと伝えられる故刹です。
正応三年(一二九〇)に、龍性法師(または瀧性法師)によって中興開山されました。
現在の本堂は、安永七年(一七七八)の建立で本尊は薬師如来、板戸の十六羅漢画や格天井花鳥画(市指定有形文化財)は、天保十年のころ青梅の人石川文松によって描かれたものです。江戸時代の建立とされる山門には、寛永十五年(一六三八)鋳造の梵鐘(市指定有形文化財)が収められています。観音堂も江戸時代の建立と伝えられ、狭山二十番札所で、江戸時代の中頃から奉納され始めた百体観音が安置されています。(武蔵村山市教育委員会掲示より)
真福寺所蔵の文化財
- 真福寺梵鐘(市指定有形文化財)
- 格天井の花鳥画(市指定有形文化財)
真福寺梵鐘
この梵鐘は、寛永十五年(一六三八)当寺第九世頼栄法師の代に檀家の協力により鋳造された。作者は、鍛冶長瀬理右衛門久次で、この寺が正応三年(一二九〇)に瀧性法師によって再興されたことなどの由緒が刻まれており、年代のうえからも貴重なものとして、第二次世界大戦の時に供出を免除された。
宝暦年間(一七五一〜六三)当寺が火災にあった際、亀裂が入り撞けなくなったので、この山門楼上にかけられている。
高さ一三八センチメートル
口径七五センチメートル
撞座高さ二九・五センチメートル(武蔵村山市教育委員会掲示より)
格天井の花鳥画
真福寺本堂の格天井に描かれている花鳥画が、宗祖弘法大師の一千年ご遠忌の記念事業として天保十年(一八三九)檀家及び末寺の協力により完成した。一般には、百花百鳥といわれ、百枚に花、九十九枚に鳥、一枚に竜が描かれている。これに関連する古文書として「天井彩色勧化帳」(天保十年)が当寺に保存されている。
作者は石川文松で現青梅市に生まれ、多摩や入間地方を中心に活躍した画人であり、当寺には花鳥画のほかに同人作の「板戸の十六羅漢画」が残されている。(武蔵村山市教育委員会掲示より)
真福寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿