玉川上水起点(羽村取水堰)|かたつむりの形状をした下り通路の井戸
玉川上水起点(羽村取水堰)の概要
玉川上水起点(羽村取水堰)は、羽村市玉川にある名所旧跡です。玉川上水起点(羽村取水堰)は、江戸の飲料水供給のために承応3年(1654)玉川兄弟(清右衛門・庄右衛門)が開発した玉川上水の起点です。多摩川上流の羽村に設けた羽村取水堰で水を堰止めて十分な水量を玉川上水路に引き入れ、四ツ谷大木戸まで43km流れ、四谷大木戸から江戸市中に分水されて利用されていた他、川越方面へも分水されていました。羽村取水堰の右岸側(あきる野市側)には筏を流す堰の筏通し場が設けられていたといいます。
名称 | 玉川上水起点(羽村取水堰) |
---|---|
みどころ | 名所旧跡・旧跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 羽村市玉川1-1羽村草花丘陵自然公園 |
備考 | - |
玉川上水起点(羽村取水堰)の由緒
玉川上水起点(羽村取水堰)は、江戸の飲料水供給のために承応3年(1654)玉川兄弟(清右衛門・庄右衛門)が開発した玉川上水の起点です。多摩川上流の羽村に設けた羽村取水堰で水を堰止めて十分な水量を玉川上水路に引き入れ、四ツ谷大木戸まで43km流れ、四谷大木戸から江戸市中に分水されて利用されていた他、川越方面へも分水されていました。羽村取水堰の右岸側(あきる野市側)には筏を流す堰の筏通し場が設けられていたといいます。
東京都教育委員会掲示による玉川上水起点(羽村取水堰)について(東京都指定史跡)
羽村取水堰
この堰は、多摩川をせき止め水道用の原水を玉川上水路に引き入れるために造られたもので、固定堰や投渡堰と呼ばれる珍しい構造の堰からできています。
---
玉川上水
玉川上水は、羽村取水堰から新宿区の四ツ谷大木戸に至る延長約43kmの上水路で、1654年(承応3年)当時、江戸の飲料水供給のために造られたものです(現在は、羽村取水堰から小平監視所までの間約12kmが、上水路として利用されています。)。(境内掲示より)
新編武蔵風土記稿による玉川上水起点(羽村取水堰)について
(羽村)
多磨川
村の中央を西より南へ流る、當村江戸上水の引分口なれば水門を置、二派にわかてり、
水門
二ヵ所各廣四尺五寸許を以て定測とす、四時に随て進退あり、水溝の涸凡六間、此外分水口數ヶ所、通計凡三十四ヶ所、分水口より江戸四谷の大木戸まで水路凡十二里十九町餘、是を多磨川上水と云、其濫觴を尋ぬるに、今の御の子司大久保主水先祖、大久保藤五郎忠行といひしもの、永禄六年十二月の軍に忠戦をはげみしかど、火炮に中りて後廃人となり、ゆかりにつきて當郡に来り、上和田村に寓居す、天正十八年御入國のとき、御旨をうけて初めて用水を開き、多磨川の清泉を小石川筋へ達せしによりて、名を主水とめされしよし、然れどもこの時の水路は何れなりや今詳に辨しがたし、承應元年に至り松平伊豆守信綱、奉行して當村に於て水門を置、並流を分、江戸御城へも條達す、此時に至て注灌の功全く成る、その比の功をおこせしものは、清右衛門・庄右衛門とて、江戸居住のものなり、成功の後かれらを御普請役に命ぜられ、しかも多磨川を以て氏に賜ふ、後兩人共によからぬふるまひありしかば、罪かうむつて家絶と云、又川越の間帛の灌漑に此水を引しも、伊豆守信綱のときなりと。
---
堤
多磨川除の堤なり、長一町半ほど。
---
陣屋二ヶ所
水門進退のため川のほとりにたてをき、御普請方同心常に来りて来住す、四月より八月までは二人、其他は一人なり。(東京都教育委員会掲示より)
玉川上水起点(羽村取水堰)に関する文化財
- 堰の筏通し場
- 牛枠(川倉水制)
堰の筏通し場
「きのう山下げ きょう青梅下げあすは羽村の堰落し」と筏乗り唄にうたわれたように、玉川上流から伐り出す青梅材を江戸(東京)に搬出する筏乗りにとって、羽村の堰は最大の難所でした。
享保三年(一七一八)、江戸幕府は筏による堰の破損を理由に、堰通過を全面禁止しました。羽村井西の三田領四十二ヶ村の筏師仲間は、幕府に堰通行の再開を嘆願しました。享保六年、新たに筏通し場を設置し、特定の日時を限って通行が許可されました。以来、堰を下る戦場さながらの壮観な筏落しの風景は、大正末年ごろまで見かけられました。(境内掲示より)
牛枠(川倉水制)
牛枠(川倉水制)
昔の人たちは、祖先から受け継いだ知恵と自らの経験とに基づき、身近な素材を生かし自然と対話しながら、川を治めてきました。そうした治水の技術のひとつが、水野勢いを弱め、堤防が壊れるのを防ぐ「川倉」です。かたちが馬の背中に似ていることから「川鞍(かわくら)」と名づけられ、のちに「川倉」と呼ぶようになったこの仕組みには、さまざまな種類がありますが、最も一般的なものは「牛枠(うしわく)」と言われています。
「牛枠」は、堤防に植えた河畔林を切り出し組立てます。木材だけでは水中で浮き上がるため、水の勢いに負けないよう、川湯かの玉石をつめた蛇籠で固定します。堤防を強化する林が同時に治水の材料を提供する、優れた知恵によるものです。
かつて「牛枠」のほかにも。、「聖牛(せいぎゅう)」・「笈牛(おいうし)」
・「鳥脚(とりあし)」などの「川倉」があり、あちこちの川で働いていました。しかし今日では、ほとんどその姿を見ることができなくなっています。(境内掲示より)
玉川上水起点(羽村取水堰)の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿