御殿稲荷神社|府中市本町の神社

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御殿稲荷神社|大国魂神社の境外末社

御殿稲荷神社の概要

御殿稲荷神社は府中市本町にある神社です。御殿稲荷神社の創建年代は不詳ながら、当地周辺には武蔵国造や国司にまつわる伝承が残され、徳川家康も当地に御殿を造営、正保年間(1645-1648)には御殿もなくなったことから御殿跡と呼ばれた地です。

御殿稲荷神社
御殿稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 -
相殿 -
境内社 -
住所 府中市本町2-5-4
祭日 -
備考 -



御殿稲荷神社の由緒

御殿稲荷神社の創建年代は不詳ながら、当地周辺には武蔵国造や国司にまつわる伝承が残され、徳川家康も当地に御殿を造営、正保年間(1645-1648)には御殿もなくなったことから御殿跡と呼ばれた地です。

新編武蔵風土記稿による御殿稲荷神社の由緒

(本町)稲荷社
除地、四畝、御殿地の西北の方にあり、二間に二間半の覆屋あり、蓮乗院持。
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御殿跡
妙光院の西方にあり、東北は平地につづき、西南は三丈許の高崖にして、眺望よし、其下は素電なり、廣袤凡百歩許の丘皐なり、此地は太古當國の國造住し舊蹟なりとぞ、成務帝の朝二比之宇迦諸忍之神狭命十世孫多毛比尊定賜无志耶國造と見えしは、此地に府を置れし始なり、或は安寧帝の朝多毛比尊を武蔵國造と定めたまふといへる説あり、是成務帝より十世前にあり、この説は近来となふる所にして、何に据る事を知らず、神代の記に、天穂命日此出雲臣武蔵國造土師連等遠祖なりと見ゆ、天穂日命は天照大神の皇子なりとも、又素戔嗚尊の第二の御子ともいへり、されば多毛比命は天穂日命の子孫なる事しるべし、ただ其幾世の裔といふことを詳にせず、又兄多毛比命兒伊狭知直國造を賜ふと見えたり、箕装を繼てこの府におおはしたまふか、一説に此府の國造の兒伊狭知直足立郡に別れたまふと、是大國は必別府あるの故なりと、後數朝を歴て貞観十六年三月、新銅印一面を鑄て武蔵國に賜ふ、舊印文刻盡るを以なりとみえしは、この地在府の國司に賜ひしものか、斯る舊跡の故にや、東照宮この地に御殿を造營ありて、遊獵の草舎などなしたまひき、寛永中回禄に遇て再營ありしが、正保の頃又鬱収の爲に烏有し、それより構營の沙汰なし、享保九年に及て開墾し陸田とせらる、今村民の耕作の地なり。(新編武蔵風土記稿より)


御殿稲荷神社の周辺図

  • 新編武蔵風土記稿