分倍河原古戦場碑|新田義貞が鎌倉幕府軍を破った地
分倍河原古戦場碑の概要
分倍河原古戦場碑は、府中市分梅町にある名所旧跡です。分倍河原古戦場碑は、鎌倉幕府滅亡に際して、新田義貞と北条泰家とが対陣、北条勢が陣を敷いた場所です。元弘3年(1333)5月16日未明の襲撃で北条勢は敗れ、22日鎌倉幕府が滅亡しています。また、新編武蔵風土記稿では、治承4年(1180)には源頼朝が当地に軍税を終結させたとも記載しています。
名称 | 分倍河原古戦場碑 |
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みどころ | 東京都指定旧跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 府中市分梅町2-59 |
備考 | - |
分倍河原古戦場碑の由緒
分倍河原古戦場碑は、鎌倉幕府滅亡に際して、新田義貞と北条泰家とが対陣、北条勢が陣を敷いた場所です。元弘3年(1333)5月16日未明の襲撃で北条勢は敗れ、22日鎌倉幕府が滅亡しています。また、新編武蔵風土記稿では、治承4年(1180)には源頼朝が当地に軍税を終結させたとも記載しています。
分倍河原古戦場碑について
分倍河原古戦場
文永(一二七四)、弘安(一二八一)の役を経験した頃、北条執権政治は根底からゆらぎ御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の速度を早めた。元弘三年(一三三三)五月、新田義貞は執権北条高塒を鎌倉に攻めるため、上野、武蔵、越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で北条方の副将長崎高重、桜田貞国を破り(五月十一日)、さらに、久米川の戦で優勢に立った。北条方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総帥として新田勢を迎撃した。新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時、武蔵国分寺は新田勢のために焼失させられたという。その夜(五月十五日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、十六日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め二十二日に鎌倉幕府は滅亡した。(東京都教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による分倍河原古戦場について
(本町)
古戦場
此邊おしなべて兵亂をへし地にて、一所をさしとげいふべからずといへども、分倍河原は殊更その名も聞へし戦場なり、治承四年十月源賴朝關東八箇國の軍勢を、府中軍配河原に集めしと傳へたるは、この地なり、後に或は分陪に作り、今は分梅と書し唱へも分はいとはいはず、ふはいとよべり、古へは多磨川六所の社背を流れて、全く河原の地なりしといへり、後世川瀬の移るに從て、其地皆田圃となれり、南の方多磨川に臨み、東西廣く、南北短し、延凡七八丁の所なり、武蔵野新田に連續せり、田間に胴塚首塚など言ひて多くの小塚ありて、其數をしらず、其中に就て高倉塚と呼ぶものあり、是古へ國府屯倉の蹟なるべしといへり、今按に天應元年高倉福信遷弾正尹兼武蔵守と見えしことあり、或は福信此府にありて卒し、むくらをここに埋めしも又しるべからず、此の地戦場の事歴已に府中宿の條及番場宿高安寺の條に出せり、幷せて見るべし(新編武蔵風土記稿より)
分倍河原古戦場碑の周辺図