子安神社|橘右京少輔が皇后御安産祈願の為に創建、旧郷社
子安神社の概要
子安神社は、八王子市明神町にある神社です。子安神社は、天平宝字3年(759)橘右京少輔が皇后御安産祈願の為に創建したといいます。源義家が奥州下向の折には戦勝を祈願して当社に欅十八本を船形に植樹したことから、「船森」と称されるようになったといいます。江戸期には社領6石の御朱印状を拝領、明治初年には郷社に列格したといいます。
社号 | 子安神社 |
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祭神 | 木花開耶姫命 |
相殿 | 大山咋命、天照大神、素盞嗚尊、奇稲田姫命 |
境内社 | 船森弁財天、金刀比羅神社、大黒神、葦船社、石神社・白山神社・稲荷神社・御嶽神社・第六天神社 |
住所 | 八王子市明神町4-10-3 |
祭日 | 9月20日 |
備考 | - |
子安神社の由緒
子安神社は、天平宝字3年(759)橘右京少輔が皇后御安産祈願の為に創建したといいます。源義家が奥州下向の折には戦勝を祈願して当社に欅十八本を船形に植樹したことから、「船森」と称されるようになったといいます。江戸期には社領6石の御朱印状を拝領、明治初年には郷社に列格したといいます。
境内掲示による子安神社の由緒
当社は元子安明神と称し遠く奈良時代の天平宝字三年(七五九年)橘右京少輔なる者が皇后御安産祈願の為に創建されたと伝へられ、氏子である子安明神の両町名も当社の加護を願ってつけられ、その昔源義家が奥州下向の折戦勝を願って当社に欅十八本を船形に植樹された事からこの神苑を船森と称し、近くは代々の徳川将軍家より朱印地六石の寄進を受け、明治初年に子安神社と改称し、政府より郷社の社格を受けました。古来安産祈願のため底抜け柄杓を納める習わしがあります。(境内掲示より)
東京都神社名鑑による子安神社の由緒
当社の創祀は「天平宝字三年(七五九)橘右京少輔勅を受け、皇后御安産の為にここに草創すと『新編武蔵国風土記稿』にも伝え、その後、再三の改築がなされ、現在残された記録だけでも元徳二年(一三三〇)、元禄十四年(一七〇一)、元治二年(一八六五)特に明治三十年の八王子大火ではほとんど烏有に帰してしまった。社伝に源義家奥州下向の折戦勝を祈願して欅十八本を船形に植えたことから、当社の森を古来船森と称し、元徳二年には武蔵人見村の住人見四郎光行恩阿が社殿、神櫃の寄進があり、慶安二年(一六四九)以後代々の将軍家より朱印六石の寄進があった。(東京都神社名鑑より)
新編武蔵風土記稿による子安神社の由緒
(子安村)
子安明神社
村の東北にあり、社地うちひらきて眺望いと宜き地なり、御朱印六石餘の地を御寄附あり、村の鎮守なり、例祭七月廿二地を用ゆ、本社五尺四方、南向、上屋二間四方、拝殿二間に三間、祭神木花咲耶姫命木像にて、長七尺餘の坐像なり、相傳へて聖徳太子の作なりと云、其さまはいと古色に見えたり、鎮座の初を尋るに天平寳字三年橘右京少輔勅をうけて、皇后御安産の為にここに草創すといへり、されば安産守護の霊験多きことは、枚挙するに遑あらずと、本地佛観音の像は鏡に鋳出したるものなり、直径六寸五分、銘に武州多西郡横山庄之内子安大明神天文廿二癸丑年十一月造立願主権大僧都清榮敬白と刻す。是にても古社なること證すべし、この後のことはすべて詳ならず、元禄十四年三月再建大檀那江戸表六番町石原氏源次春と書したる棟札あり、さればこの頃再造のことありしにや、石原氏とあるは石原市左衛門と云へる人なり、社地に古木多し、土人或は舟森と呼ぶは、舟に似たるゆへなり、又古木の内けやきの大樹周圍醫二丈許なるもの六本あり、昔は十八本なりしがかれうせしと云り。
末社。
○金毘羅社。纔に四尺四方にて池中の嶋にあり。
○白山社。本社の側にあり、小祠。
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○天王社
除地、八段歩、小名本村にあり、わづかに一間四方の祠にて、福傳寺の持なり。
山王社
除地、二段一畝廿九歩、小名本村の北にあり、これも僅かなる小祠にて、福傳寺の持。
○第六天社
これも本村にあり、小祠、同寺の持。
○石神社
字石神にあり、同寺の持。(新編武蔵風土記稿より)
子安神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 東京都神社名鑑