天松山最教寺|徳川秀忠の娘千姫天樹院殿の帰依を受けて開山
最教寺の概要
日蓮宗寺院の最教寺は、天松山慧到院と号します。最教寺は、仙能院日祟上人(寛文13年1673年寂)が池の端に道場を構えて寛永年間(1624-1644)に開創、徳川秀忠の娘千姫(天樹院殿)の帰依を受けて祈禱所となり、押上に寺地を受領して移転、仙能院日祟上人(寛文13年1673年寂)を開山とし、自身を2世としたといいます。徳川家より受領した宗祖日蓮上人自筆の「蒙古退治の旗曼荼羅」は、鎌倉将軍惟康親王の命により、宇都宮三河守藤原貞綱が蒙古退治に際して護持したもので、虫払いの時期(7月)には一般公開され、庶民の尊崇を集めていたといいます。安政の大地震により堂宇倒潰、明治時代に入り浅草新寺町の妙法山玉泉寺を吸収し堂宇再建したものの、関東大震災により壊滅したことから、大正13年杉並堀の内へ移転、昭和39年寺地が環状7号線用地となり、当地へ移転したといいます。
山号 | 天松山 |
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院号 | 慧到院 |
寺号 | 最教寺 |
住所 | 八王子市宮下町144 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
最教寺の縁起
最教寺は、仙能院日祟上人(寛文13年1673年寂)が池の端に道場を構えて寛永年間(1624-1644)に開創、徳川秀忠の娘千姫(天樹院殿)の帰依を受けて祈禱所となり、押上に寺地を受領して移転、仙能院日祟上人(寛文13年1673年寂)を開山とし、自身を2世としたといいます。徳川家より受領した宗祖日蓮上人自筆の「蒙古退治の旗曼荼羅」は、鎌倉将軍惟康親王の命により、宇都宮三河守藤原貞綱が蒙古退治に際して護持したもので、虫払いの時期(7月)には一般公開され、庶民の尊崇を集めていたといいます。安政の大地震により堂宇倒潰、明治時代に入り浅草新寺町の妙法山玉泉寺を吸収し堂宇再建したものの、関東大震災により壊滅したことから、大正13年杉並堀の内へ移転、昭和39年寺地が環状7号線用地となり、当地へ移転したといいます。
「本所區史」による最教寺の縁起
最教寺
最教寺は押上町二百一番地にあり天松山と號し慧到院と稱して甲斐國身延山久遠寺の末である。慶長元年の創建にして開山は通行日境上人で開基は日祟上人といふことである。當寺に蔵した所の蒙古退治曼荼羅は有名のもので、毎年七月十六日より二十二日まで蟲拂の爲に一般の展覧に供したものである。同寺は昭和五年七月三日付を以つて府下豊多摩郡杉並町高圓寺百三十番地に移轉する事となつた。(「本所區史」より)
新編武蔵風土記稿による最教寺の縁起
(押上村)
最教寺
法華宗、甲斐国身延久遠寺末、天松山慧到院と号す。本尊三寶を安置す。慶長元年の起立の由。開山通心院、日境は本山二十一世の僧にて、萬冶二年十月二十八日寂。開基を仙能院日祟と云。寛文十三年七月二十六日化す。当寺昔は上野の池端にありしを天樹院殿の御帰依に出て、御祈祷所となり。其頃当地へ移さるといへり。其年月は詳にせざれど大抵寛永中の事なるべし。寺領は御寄附あらざれど、佛具等に葵御門を付しは、彼姫君より御納ありしゆへと云。
七面堂。境内の鎮守にして、本寺久遠寺の七面と同体なり。日祟二百日加行して造立せし堂なりと云。
旗曼荼羅堂。蒙古退治旗曼荼羅と唱ふ。長六尺五寸。幅五尺五寸。この旗の来歴は、弘安四年七月蒙古西海に来寇せし時、鎌倉将軍惟康親王征伐のため、宇都宮三河守藤原貞綱に命じて、日蓮の許に遣し、夷賊退治の祈祷として、両面四天王八大龍王、日月の旗の図中に大曼荼羅を書しむ。貞綱この旗を持して、西海に発向し、八月朔日濱邊の山上にこの旗を押立しかば、俄に暴風波浪を吹起て、蒙古の賊船悉く破壊せり。是より蒙古退治旗と号して、宇都宮貞綱の家に蔵せしを、其後転傳して、御城大奥にひめをかれしを、後年当寺に納められしと云傳ふ。宇都宮貞綱及池上宗仲の添状二通あり。其文左のごとし(中略)
稲荷社。
鐘楼、承応三年九月建立せり。(新編武蔵風土記稿より)
最教寺の周辺図
参考資料
- 「本所區史」
- 新編武蔵風土記稿
- 「日蓮宗寺院大鑑」