小野神社|延喜式式内社、旧武蔵国一宮、旧郷社
小野神社の概要
小野神社は、多摩市一ノ宮にある神社です。小野神社の創建年代は不詳ですが、かつては武蔵国の一宮であったと比定され、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている「小野神社」にも比定されています。新編武蔵風土記稿では、「武蔵国はかつて三国だったたことから、その内の旡邪志国の一宮であったものの、三国が一国に統合された際に氷川神社が一宮になったのであろう」と推定しています。江戸時代には社領15石の御朱印状を拝領、明治時代には郷社に列格していたといいます。
社号 | 小野神社 |
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祭神 | 天乃下春命、瀬織津比咩ノ大神、伊弉冉尊、素盞嗚尊、大己貴大神、瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | 伊勢神宮内宮、伊勢神宮外宮、三嶋神宮、八坂神社、愛宕神社、安津神社、日代神社、鹿島神社、子安神社、厳島神社、方便神社、秋葉神社、稲荷神社、堰宮神社 |
住所 | 多摩市一ノ宮1-18-8 |
祭日 | 例大祭9月第2日曜日 |
備考 | 延喜式式内社、旧郷社 |
小野神社の由緒
小野神社の創建年代等は不詳ながら、かつては武蔵国の一宮であったと比定され、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている「小野神社」にも比定されています。新編武蔵風土記稿では、「武蔵国はかつて三国だったたことから、その内の旡邪志国の一宮であったものの、三国が一国に統合された際に氷川神社が一宮になったのであろう」と推定しています。江戸時代には社領15石の御朱印状を拝領、明治時代には郷社に列格していたといいます。
新編武蔵風土記稿による小野神社の由緒
(一之宮村)一之宮明神社
社地、五十間四方許、社領十五石の内なり、村の内にあり、村内にて十五石の社領を御朱印附せらる、本社は三間に二間の宮造にして、四邊に瑞籬を構へ、其前少しへ立て拝殿を建つ、二間に五間半、共に西向なり、又拝殿をさること八旧間許、西に随身門あり、二間に三間半、随身の像は佛師運慶が作なりと云、前に木の鳥居たてり、郡中に一宮・二宮ありて、村名にさへ唱ふれば、此社の古きことは論をまたず、今に其社地をみるに、もと玉川の河原にして、四五百年来の開闢に過ぎざるべく見ゆれば、是へ移し祀りしは後世のこととこそおもはる、近郷百草村は山にそひたる地にして、かしこなる寺院松連寺に蔵する、建久四年の銘を刻せし経筒を見に、一宮別当松連寺としるせり、さればその時代には松連寺当社の別当職たりしこと分明なり、よりておもふに、そのかみの社地は今の地よりは西へよりて、岡山の上などにたちしなるべし、社傳に云、当社は安寧天皇の御宇鎮座にして、祭神は当国の国造惠多毛比命の祖、天下春命なり、配祀五座伊弉册尊・大己貴尊・素盞嗚尊・瓊瓊杵尊・彦火々出見尊なりと、今按に是社傳疑はしく覚ゆ、其をいかにと云に、今の神職と云者後世ここに移りしものにて、古松連寺の別当職たりしことだに、いひもつたへざるほどなれば、中ころ衰廃して、社傳以下皆亡しは勿論なり、されば此祭神も後に推考して、妄に定しことはしらる、今試に論ぜんに、古は当国の地、三国のごとくにわかれて、旡邪志といひ、胸刺といひ、知々夫といひしなり、今より想像するに、山川野原等をさかひとせしさま、おのづから昔のことしゆべからざるに似たり、さて旡邪志には兄多毛比命を国造と定められ、胸刺へは伊狭知直ををかれ、知々夫へは知々夫彦命ををかれたり、このは知々夫彦命は天穂日命の子孫なれば、もとより同族にあらず、これ国造本紀・古事記等の古書によりて云所なり、今社傳に惠多毛比命の祖下春命と云こと、昔三国なりしことを考へずして、今三をあはせて、一国とせし後より、かかる両端をかねし説をなせしにて、その牽強付会しるべし、又按に諸国とも一宮・二宮・三宮など号して、国の鎮守たることは常なり、中にも東海・東山の諸国に祀れるもの多く、大巳貴・少彦名の二神なり、その故はこの二神は草昧の世、早く中国より東邊までを治め玉ひし神なればなり、その委きことは神代巻等に載たれば是には瓣ぜず、これによれば、配祀せる大巳貴神、これもとの祭神なりしならん、或云、当社は神名帳当国四十四座の内にのせざればさせる古社ともおもはれずと、これもまた考の疎なるより、神名帳は延喜年中にえらばれしものなれば、今よりは上古のことにても、其比衰たるは元よりのせざれば、式外の神社を国史等にものせて、古社は何ほどもあるべきなり。古此国三国にわかれしとき、荒川より南にては、当社一宮にして、北は足立郡氷川社知々夫にては大宮、これ皆国の一宮なるべし、然るに大寶年中初て国守を置れ、今の府中を定められしとき、当社はおとろへたるなるべけれど、もとより国魂の社なるにより、府に近ければこれを一宮と号し、その余の二社は大宮と号して、唱をわかたれしなるべし、今府中惣社六所の祭にも、当社の神輿を出すこと、かたがたゆへあるべきことなり、後世傳を失ひて或式内小野神社ば、則当社なりなと云妄説をなすに至れり、かく古實を失ふこと惜むべし、また一宮の名ふるくものにみえしは、東鑑を始めとすべきか、治承五年四月廿四日の條に、武蔵国多磨郡の内吉冨并一宮蓮光寺等を以て、小山田三郎重成が、所領の内に住加云々すとあり、
神主新田主水。新田大炊助義重が後裔なりといへり、されど舊記家系は、皆丙丁の災にかかりて烏有すと云り、その詳なることは考へず。
本地堂。随身門を入て左の方にあり、二間に九尺、文殊菩薩の獅子にまたがりたる長六寸許なる木像を安置す、この本地佛あるにても昔別当寺も有し事明らけし。
末社小社二宇。本地堂の並にあり。(新編武蔵風土記稿より)
小野神社所蔵の文化財
- 木造随身椅像(東京都指定有形文化財)
木造随身椅像
小野神社の起こりは旧く八世紀中頃とも言われ、中世には武蔵国衙に近在する筆頭の神社、武蔵一宮であった。
武蔵一宮小野神社については現存する史料が極めて乏しい中で、昭和四十九年にこの随身椅像に墨書銘があることが発見された。
墨書銘によれば、この二躰のうち古い方の随身像は、元応元年(1319)因幡法橋応円・権律師丞源らにより奉納されたもので、その後、寛永五年(1628)に相州鎌倉の仏師大弐宗慶法印によって彩色などの補修が行われ、その際新しい方の像が新調されたことを伝えている。
どちらも檜材、寄木造、胡粉地に菜色が施され、頭部は挿首、玉眼。
都内では、室町時代以前の随身像は数少なく、また武蔵一宮小野神社の歴史を伝える数少ない資料の一つとして貴重な文化財である。(東京都教育委員会掲示より)
小野神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿