不動山成満寺|元和元年(1615)江戸に創建
成満寺の概要
真宗大谷派寺院の成満寺は、不動山無量院と号します。成満寺は、了孤(慶長6年1601年寂)を開基として、京都浄泉寺3世了賢が、元和元年(1615)江戸八丁堀に成満寺を創建、寛永12年(1635)田町へ移転、寛文元年には三田聖坂へ、寛文12年(1672)には、赤坂田町専覺寺(後に廃寺)の寺地へ移ったといいます。延宝6年(1678)には寺社奉行の許可を得て「時の鐘」の役目を勤めていました。戦後へ移転しています。
山号 | 不動山 |
---|---|
院号 | 無量院 |
寺号 | 成満寺 |
宗派 | 真宗大谷派 |
住所 | 多摩市連光寺4-20-2 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
成満寺の縁起
成満寺は、了孤(慶長6年1601年寂)を開基として、京都浄泉寺3世了賢が、元和元年(1615)江戸八丁堀に成満寺を創建、寛永12年(1635)田町へ移転、寛文元年には三田聖坂へ、寛文12年(1672)には、赤坂田町専覺寺(後に廃寺)の寺地へ移ったといいます。延宝6年(1678)には寺社奉行の許可を得て「時の鐘」の役目を勤めていました。戦後へ移転しています。
境内石板による成満寺の縁起
眞宗大谷派成満寺(山號及別號 不動山无量院 浅草本願寺末)田町三丁目四番地
起立年代不詳。もとは眞言宗にて、伏見山无量院と號し、山城國紀伊郡伏見に在つたものだが、境内に清水が湧出でたま々浄泉寺と稱し、その後山號を不動山と改稱した。六代目了仁の時、天文七年中に眞宗に改宗したもので、それより三代目了賢の時、元和元年、江戸八丁堀に成満寺を起立し、伏見浄泉寺の兼務としたが、追々江戸繁榮に付、同三四年の比、伏見浄泉寺も遂に江戸木挽町へ引移つた。越えて寛永十二年、八丁堀の成満寺は、芝田町へ移轉し、その後寛文元年には、三田聖坂へ移り、同十二年には、やはり木挽町浄泉寺の支配下にあつた赤坂田町専覺寺の寺地に引移つた。これが現在の寺地である。その時成満寺の寺中となつた専覺寺は、享保三年に至つて廢絶し、また木挽町浄泉寺は、寛文八年古跡改の節、住職の怠慢で寺社奉行へ申出なかたつたゝめ、公記に洩れ、その後焼失斷絶したが、成満寺より寺社奉行へ出願した結果、貞享四年、右浄泉寺を成満寺々地へ引移し、次いで之を成満寺に併合したのである。
當寺の開基は、了孤(慶長六年十月二十五日寂)である。
紀伊家の法號を菩提心院智願愍生居士(紀伊家七代目宗将)と唱へた人の信仰厚く、鍾樓再建其他の寄附があつた。
當寺に現存する鐘は、江戸時代には晝夜時を報じ、謂はゆる「時の鐘」の役目を勤めたものであつたが、續府内備考によれば、開基より七世了圓の住職時代に、延寶五年六月十八日、時の寺社奉行稲葉丹後守の役宅に於て、松平宮内少輔、大岡越前守列座の上、越前守より御免の儀を申渡されたので、同年八月二十廿八日の明ヶ六時から撞き始めたと云ふ。(「赤坂區史」より)
成満寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「多摩市史」