祥應寺|本多新田開発に際して国分寺から引寺
祥應寺の概要
黄檗宗寺院の祥應寺は、黒鐘山と号します。祥應寺は、本多新田開発に際して村民儀右衛門が深川海福寺第六世快門を開山に請い、国分寺村にあった無住の祥應寺を享保11年(1726)引寺して創建したといいます。
山号 | 黒鐘山 |
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院号 | - |
寺号 | 祥應寺 |
本尊 | 釈迦如来像 |
宗派 | 黄檗宗 |
住所 | 国分寺市本多4-2-2 |
葬儀・墓地 | 祥應寺きわだ斎場 |
備考 | - |
祥應寺の縁起
祥應寺は、本多新田開発に際して村民儀右衛門が深川海福寺第六世快門を開山に請い、国分寺村にあった無住の祥應寺を享保11年(1726)引寺して創建したといいます。
新編武蔵風土記稿による祥應寺の縁起
(本田新田)祥應寺
境内除地、三段八畝、村の西にて国分寺村の界にあり。黒鐘山と号す。黄檗宗、江戸本所羅漢寺(註:現五百羅漢寺)の末、客殿五間に三間、本尊釈迦木の坐像長一尺余、開山は江戸深川海福寺第六世快門なり。儀右衛門開発の後此僧に嘱託して一宇を起立せり。故を以て開山とす。且幸に村里に廃寺あるを以て其よしを訴へ上て、旧名を襲へりと云ふ。(新編武蔵風土記稿より)
「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」による祥應寺の縁起
黒鐘山祥応寺は、連雀通本多二丁目交差点から50メートル程西側に位置する黄檗宗寺院です。本多の地は享保9(1724)年、新田開発によって開かれ、享保 11(1726)年に親村の国分寺村に所在した無住祥応寺の引寺願が出され移されたのがこの地における本寺の始まりとされています。当初は深川の海福寺末、文化6 (1809)年には羅漢寺末、文政5 (1822)年には京都宇治の万福寺末となった経過を持っています。
境内は連雀通からやや奥まり、南面して本堂、東隣に庫裡が位置します。庫裡前方には引寺に際し、移植したとされる市天然記念物「このてかしわ」一株が枝を広げています。(「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」より)
祥應寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」