大蔵春日神社|蔵福寺法印頼盛が春日大社を勧請して宝永4年創建
大蔵春日神社の概要
大蔵春日神社は、町田市大蔵町にある神社です。大蔵春日神社は、蔵福寺法印頼盛が春日大社を勧請して宝永4年(1707)に創建、幕府より社領8石の御朱印状を拝領したといいます。明治43年に打越の白山神社、東方の八坂神社、中程の八幡神社、住吉の住吉神社、東方の稲荷神社、諏訪神社、井ノ花の稲荷神社の七社を合祀したといいます。
社号 | 春日神社 |
---|---|
祭神 | 天児屋根命 |
相殿 | 比売命、伊弉冊命、倉稲魂命、建御名方命、応神天皇、素戔嗚尊、表筒男命 |
境内社 | 弁天社、稲荷社 |
住所 | 町田市大蔵町2822 |
祭日 | 9月1日 |
備考 | - |
大蔵春日神社の由緒
大蔵春日神社は、蔵福寺法印頼盛が春日大社を勧請して宝永4年(1707)に創建、幕府より社領8石の御朱印状を拝領したといいます。明治43年に打越の白山神社、東方の八坂神社、中程の八幡神社、住吉の住吉神社、東方の稲荷神社、諏訪神社、井ノ花の稲荷神社の七社を合祀したといいます。
新編武蔵風土記稿による大蔵春日神社の由緒
(大蔵村)
稲荷社
除地、七畝二歩、小名井花(村の西の堺を云)にあり、小社にて上屋を設く、東向なり、白幣を神體とす、鎮座の年歴を傳ず、村民持
春日社
社地、百坪、無年貢地にあり、社領三石の御朱印を賜はり、村内増福寺進退す、勧請の年代を傳へず、本社に上屋あり、三間半四方ほど、巽に向へり、神體は頭に青龍を頂き笏を持て坐せる像にて、長八九寸ほど、社前に石階数十級ありてその下に鳥居をたつ、例祭九月廿九日なり。末社稲荷社。
八幡社
除地、水田四歩、陸田二十六歩、小名中にあり、鎮座の年代しらず、小社にて上屋あり、南向白幣を神體とす、社前に鳥居をたつ、村民の持
住吉社
除地、陸田四段一畝二十一歩、小名臺(村の南の方)にあり、これも鎮座の年代をしらず、小社にて覆屋あり、神體は白幣なり、村民持。
天王社
除地、陸田二段一畝二十八歩、小名下にあり、これも小社にて覆屋を設く。
白山社
社地、一段、無年貢地、同邊にあり、慶性寺の持にて、七石五斗の御朱印を賜はれり、わづかなる社にて神體は白幣なり、勧請の年代をしらず。
稲荷社
除地、陸田二段二畝二十二歩、小名下にあり、小社にて覆屋あり、白幣を神體とす、村民の持。
諏訪社
除地、陸田二段一畝二十二歩、小名中にあり、小社なり、これも白幣を神體とす、村民持。
---
増福寺
境内百坪、無年貢地、小名久保山上にあり、關本山と號す、新義真言宗、坂濱高勝寺の門徒なり、五間半に四間、巽向なり、本尊地蔵、長一尺二寸木の立像なり、今は定れる住僧もなし。(新編武蔵風土記稿より)
東京都神社名鑑による大蔵春日神社の由緒
宝永四年(一七〇七)九月別当蔵福寺法印頼盛が、奈良の春日大社を勧請したのである。社領八石の朱印を受けた。天保十一年(一八四〇)、明治二十四年社殿を再建している。明治四十二年白山社、八坂社、八幡社、住吉社、稲荷社、諏訪社を合祀する。現社殿は昭和九年十月十三日の造営である。(東京都神社名鑑より)
「町田市史」による大蔵春日神社の由緒
春日神社(大蔵)
宝永四年(一七〇七)九月に春日大明神宮を造立したことが社宝の棟札にあり、別当寺の蔵福寺法印頼盛が今の地に奈良の春日大社を勧請したのである。社領として朱印八石の寄進を受けていた。天保一一年(一八四〇)に拝殿を造立し、明治二四年(一八九一)二月にも社殿を再建した。明治四三年(一九一〇)四月一五日、打越の白山神社、東方の八坂神社、中程の八幡神社、住吉の住吉神社、東方の稲荷神社、諏訪神社、井ノ花の稲荷神社の七社を合祀したのである。現在の社殿は昭和九年(一九三四)一〇月一三日の再建になるものである。現存していないがご神体は頭に青竜を頂き持笏している座像であった。
祭神は天津児屋根命を奉斎してある。
例祭日は、毎年九月一日である。
境内坪数五七九坪余り。町田市大蔵町二八二二番地に鎮座している。(「町田市史」より)
境内掲示による大蔵春日神社の由緒
旧鶴川村のほぼ中央に位置し参道の欅の古木が歴史を物語っております。江戸幕府五代将軍綱吉の宝永四年(一七〇七)九月蔵福寺法印頼盛が奈良の春日大社の御分神をいただき創建しております。幕府から朱印地三石を受け厚く保護されました。天保十一年(一八四〇)と明治二十四年(一八九一)に氏子の人々により再建されました。また明治四十二年(一九〇九)四月各地にお祀りされていた七社(白山社、八幡社、住吉社、諏訪社、八坂社、稲荷社二社)を合祀し大蔵の総鎮守として多くの人々の信仰を集めてまいりました。(境内掲示より)
大蔵春日神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 東京都神社名鑑
- 町田市史