箭幹八幡宮|勅命により推古24年創建、源義家が戦勝祈願、小山田郷の総鎮守
箭幹八幡宮の概要
箭幹八幡宮は、町田市矢部町にある神社です。箭幹八幡宮は、勅命により推古24年(616)に創建、康平5年(1062)には源義家が戦勝祈願したと伝えられ、小山田郷の総鎮守だったといいます。例祭で奉納される獅子舞は市文化財に指定されています。
社号 | 八幡社 |
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祭神 | 応神天皇 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 町田市矢部町345 |
祭日 | 10月第一日曜日 |
備考 | - |
箭幹八幡宮の由緒
箭幹八幡宮は、勅命により推古24年(616)に創建、康平5年(1062)には源義家が戦勝祈願したと伝えられ、小山田郷の総鎮守だったといいます。例祭で奉納される獅子舞は市文化財に指定されています。
新編武蔵風土記稿による箭幹八幡宮の由緒
(木曽村)矢幹八幡社
社地二町四方、其餘田二段九畝十一歩、倶に除地なり、小名矢部にあり、昔木曾某と云もの始て建立せしと云、造立ことなりしとき、其羽箭を以て屋上にさししによりて矢幹の名ありと云のみにて、その年代をつたへず、もと近郷の惣鎮守なりしが、今は當村と根岸兩村のみ鎮守とせり、例祭八月十五日、神輿を村中へわたし且社前にても神事を行ひて土人尤も群衆せり。
随身門。四間に三間、随身の木像長二尺、前に石階あり。
本社。申のの方に向ふ宮作にて覆屋あり、三間に四間、神體は長八寸ばかりの像なり、本地彌陀、これも木の立像にして長一尺許。
拝殿。三間に五間、本社の前にあり、その間三間餘拝殿より前に石階あり、それより拝殿まで十五間ばかりの間すべて甍なり。
鐘楼。随身門に向ひて右の方にあり、九尺四方鐘の銘あり、その文左にのす(銘文省略)
寮。鐘楼の向ひにあり、別當所よりこの所に宮版のものを置て守らしむ。
鳥居。随身門の正面にして、鐘楼を隔ること一町ばかり。(新編武蔵風土記稿より)
東京都神社名鑑による箭幹八幡宮の由緒
『八幡宮記』に推古二十四年(六一六)勅命により勧請されたとあり、推古天皇病気平癒のため社殿を修造されたとも書かれている。また康平五年(一〇六二)には源義家が戦勝祈願をされたとの伝承もある。天明八年(一七八八)当時の代官梁田隠岐守により社殿が再建され、小山田庄の総鎮守となる。本殿および随身門は享保五年(一七二〇)の建造で、町田市の古社として氏子以外の参詣社の数も年々増加している。(東京都神社名鑑より)
「町田市史」による箭幹八幡宮の由緒
八幡社(矢部)
推古二四年(六一六)当社が勅令によって勧請された、と「八幡宮記」にある。また推古天皇病気平癒のため社殿を修造されたともいっている。康平五年(一〇六二)には源義家が戦勝を祈願されたとの伝承がある。天明八年(一七八八)一二月には当時の代官梁田隠岐守により社殿の再建あり。その後再々の火災にあう。現存する本殿および随身門は享保五年(一七二〇)の建造になるものである。今次戦争で献納してしまったため現存していないが、古鐘は寛文五年(一六六五)従五位下高木伊勢守源守久が奉献したものであり。現在の鐘は昭和二八年(一九五三)氏子一同にて奉納したものである。
祭神は応神天皇を奉斎している。
例祭日には、市無形文化財の獅子舞が奉納され、毎年九月一五日である。
境内坪数二九九九坪。町田市矢部二六六六番地に鎮座している。(「町田市史」より)
箭幹八幡宮の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 東京都神社名鑑
- 町田市史