法要山浄運寺|矢部淡路開基、原町田七福神の毘沙門天
浄運寺の概要
日蓮宗寺院の浄運寺は、法要山と号します。浄運寺は、日明が天正5年(1577)に開創、矢部淡路(法善院日証、慶長5年1600年没)を開基とし、淡路の後嗣として武藤佐次右衛門(浄運院日徳)とその母(法用院日運)が入寺、寛永14年(1637)に一寺としたといいます。原町田七福神の毘沙門天です。
山号 | 法要山 |
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院号 | - |
寺号 | 浄運寺 |
住所 | 町田市原町田6-21-28 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | 浄運寺会館 |
備考 | - |
浄運寺の縁起
浄運寺は、日明が天正5年(1577)に開創、矢部淡路(法善院日証、慶長5年1600年没)を開基とし、淡路の後嗣として武藤佐次右衛門(浄運院日徳)とその母(法用院日運)が入寺、寛永14年(1637)に一寺としたといいます。
新編武蔵風土記稿による浄運寺の縁起
(森野村)浄雲寺
除地、二段三畝十五歩、字上にあり、日蓮宗にて、甲州身延久遠寺の末寺なり、法要山と號す、本堂七間半に六間坤に向へり、本尊三寳祖師を安す、開山日明天正五年に開闢せり。
鐘楼、門を入て左にあり、九尺四方、鐘は貞享年中のものなり、序銘を刻したれど、考證に益なければ略せりと。
番神堂、門を入て左にあり、二間に三間、三十番神の小像を安置し、左右に天神と七面との像あり。(新編武蔵風土記稿より)
「町田市史」による浄運寺の縁起
浄運寺(原町田)
所在地 町田市原町田六丁目。
宗派 法華宗。いまは通称日蓮宗とす。本山は身延山久遠寺。
山寺号 法要山浄運寺。
開山 『風土記稿』に、「天正五年七月日明開闢せり」とある。
開基 矢部淡路。浄運寺過去帳に「当寺開基檀那矢部淡路、法善院日証、慶長五年六月十日同内室妙正院善直、元和二丙辰三月十日」とあるのがこれだが、浄運寺は開山以来寛永一四年(一六三七)まで無名の庵寺で、淡路の後嗣として武藤佐次右衛門とその母が入寺し、佐次右衛門母法用院日運の法号により、山号を法用山とし、佐次右衛門浄運院日徳の法号をもって寺号とし今日に至ったようである。ただし法用山は後法要山と改めた。
本尊 三宝祖師。すなわち十界曼陀羅で、宝堂、釈迦如来、多宝如来(証命仏)等である。
本堂 庫裡よりの渡廊とも一〇〇坪。明治九年(一八七六)焼失以来本堂がなかったのを、昭和三年(一九二八)新築した。向拝は唐破風。木造入母屋造。銅葺屋根。
本堂 木造平屋瓦葺四六坪一七。
鐘楼 九尺四面総欅造、格天井。梵鐘は、昭和一八年三月太平洋戦に供出し、昭和三〇年九月、二九世日修院日芳代に日蓮宗開創七〇〇年を記念して新鋳した。
妙見堂 清正公を合祀している。二四坪。昭和四一年建。平屋木造瓦葺。
墓地に、原町田村代々の名主武藤氏の墓が列立していて、典型的名主墓地となっている。また、明治二五年三月一二日夜三多摩壮士二〇数名の襲撃を受けて斃れた大蔵村の医師大須賀明の墓などもあって、明治初年の地方政争がしのばれる。(「町田市史」より)
浄運寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「町田市史」