龍澤山祥雲寺|武相寅歳薬師如来霊場、武相卯歳観音霊場四十八ヶ所
祥雲寺の概要
曹洞宗寺院の祥雲寺は、龍澤山と号します。祥雲寺は、寥堂秀廓和尚(永禄3年1560年寂)が開山となり大永6年(1526)に開山、江戸期には、幕府より寺領15石の御朱印状を拝領していた他、最乗寺の輪番を勤めていたといいます。武相寅歳薬師如来霊場19番、武相卯歳観音霊場四十八ヶ所37番です。
山号 | 龍澤山 |
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院号 | - |
寺号 | 祥雲寺 |
住所 | 町田市高ヶ坂7-15-1 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
祥雲寺の縁起
祥雲寺は、寥堂秀廓和尚(永禄3年1560年寂)が開山となり大永6年(1526)に開山、江戸期には、幕府より寺領15石の御朱印状を拝領していた他、最乗寺の輪番を勤めていたといいます。
新編武蔵風土記稿による祥雲寺の縁起
(高ヶ坂村)祥雲寺
境内四町、字桑樹下の南にあり、曹洞宗、相州大住郡日向村石雲寺末、龍澤山と號す、開山僧雪山永禄三年六月十五日寂す、今寺領十五石の御朱印をたまへり、本堂八間に七間東向なり、本尊は華厳釋迦木の立像にて、長一尺二寸ばかり、本山石雲寺は相州足柄上群關本村最乗寺の末寺なれば、當村亦八十五年に一度、最乗寺の輪番あたると云。
観音堂。本堂に向て左にあり、二間に二間半北向なり、本尊正観音木の立像にして、長一尺五寸、行基菩薩の作なりと云。
白山社。本堂の正面にあり、小社なり、西向にて境内の鎮守なり。(新編武蔵風土記稿より)
「町田市史」による祥雲寺の縁起
祥雲寺(高ケ坂)
所在地 町田市高ケ坂字桑樹下。
宗派 曹洞宗。本山(高ケ坂)は相模国大住郡日向村石雲寺末であったが、今は越前、永平寺末としている。
山寺号 竜沢山祥雲寺。
開山 寥堂秀廓和尚(永禄三年六月一五日寂)。大永六年八月、小田原北条氏の武運長久のため、檀信徒の帰依を得て創立。北条氏虎印の朱印地寄進文書もあったが、享保の火災で焼失と伝う。本山石雲寺は相州(神奈川県)足柄上郡関本、最乗寺末のため、祥雲寺は古来八五年ごとに同寺輪番に当たる由緒がある。しかし、明治三年庚午(一八七〇)、高ケ坂村名主市川三右衛門の「高ケ坂村明細帳」には「寺庵二戸。此人別三人。祥雲寺三人」としてあるから、幕末には地方の小寺院として存立していたものとみられる。
境内地 七〇五坪。
朱印 寺領一五石。
本尊 本尊釈迦木立像。
本堂 間口八間、奥行八間と観音堂、四間に二間半のものがあったが、大正一二年(一九二三)九月一日関東大震災で共に倒壊。大正一三年再建して、今日に至り再び、本堂・庫裡・客殿等を新築し、昭和四九年落慶したのである。再建された本堂・庫裡等は左記のとおりである。
本堂 間口八間半、奥行八間。周囲に一四坪五合の渡廊あり。客殿、三八坪ニ合。二坪七合の玄関あり。庫裡は二階建一三坪七合。いずれも鉄筋コンクリート。本堂は入母屋造。なお、観音堂は旧本堂を同一境内に移築。間口六間、奥行五間。
観音堂 本尊は正観音木立像。長一尺五寸。行基作と伝う。昭和三四年東京都多摩丘陵調査によって平安中期像と認められた。この地方では「身代り観音」として知られており、伝説もあるが、これは伝説の項で叙述されている(民俗編第六章「民話と伝説」参照)。
鐘楼 九尺四方。鐘銘に文政八年(一八二五)鋳とある。そのころ鐘楼も建築か。
梵鐘 南無観世音菩薩。万人講中、武州多摩郡高ケ坂村竜沢山祥雲禅寺一五代願成代。文政八酉年と銘す。太平洋戦争に供出したが、昭和二二年三月、兵庫県尼崎市で発見され帰還した。これについてのエピソードもあるが、これはまた別の機会に詳記したい。(「町田市史」より)
祥雲寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「町田市史」