幸山華巌院|福王寺薬師堂の別当寺
華巌院の概要
高野山真言宗寺院の華巌院は、幸山と号します。華巌院の創建年代等は不詳ながら、天平年間に福王寺と号して創建したと伝えられます。福王寺はその後衰退、これを嘆いた興満聖人(天正4年1576年寂)が、明王寺の廃跡である当地に再建し、福王寺薬師堂(現野津田薬師堂)の別当を勤めたといいます。江戸時代には幕府より寺領8石の御朱印状を拝領していました。
山号 | 幸山 |
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院号 | 華巌院 |
寺号 | - |
住所 | 町田市野津田町608 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
華巌院の縁起
華巌院の創建年代等は不詳ながら、天平年間に福王寺と号して創建したと伝えられます。福王寺はその後衰退、これを嘆いた興満聖人(天正4年1576年寂)が、明王寺の廃跡である当地に再建し、福王寺薬師堂(現野津田薬師堂)の別当を勤めたといいます。江戸時代には幕府より寺領8石の御朱印状を拝領していました。
新編武蔵風土記稿による華巌院の縁起
(野津田村)華蔵院
除地、陸田二段七畝二十八歩、字本村にあり、古義真言宗、都筑郡恩田村徳恩寺末、普光山明王寺と號す、寺領八石の御朱印を賜ふ、客殿十間半に七間半、本尊不動は智證大師の作なりと云、當寺開闢の由来を尋ぬるに昔は福王寺と號して、その草創は天平年中のことなりと云、星霜を歴し、後次第に衰微して已に廢すべかりしを、興満聖人大にこれを嘆き、そのころこの地に明王寺と云廢寺ありしあとへ、引うつして中興せり、ゆへに今もかの寺號を用ゆと云、この僧は天正四年五月朔日に寂せし人なり、縁起の大意は、下の福王寺薬師堂の條にいだしたればあはせ見るべし。
鐘楼。本堂に向て左の方にあり、鐘は寶暦十二年に鋳たる由を刻せり、銘文もあれどもらせり。
寶篋塔。これも本堂に向て左にあり、高さ一丈ばかり。(新編武蔵風土記稿より)
「町田市史」による華巌院の縁起
華厳院(野津田町)
所在地 町田市野津田町本村。
宗派 古義真言宗。都筑郡恩田徳恩寺末。
山寺号 普光山華厳院明王寺。
朱印八石あった。
本尊 不動。智證大師の作と伝える。
開山 草創年代を天平と伝えるが、今は全く不明である。しかし、隣地を鎌倉古道が通っており、奥州への古道にも近いので、古寺成立の条件にかなっている。もと福王寺といったのを、室町時代末、僧満興、衰微して廃せんとするに当たり、これを明王寺の廃跡である現地に移して再興したのが華厳院である。僧満興は天正四年(一五七六)五月一日示寂。
本堂 間口一二間、奥行七間半。三方に五尺の廊があり、寄棟草屋根木造建築。二間七二枚ずつ花丸の格天井と、吉祥天女および竜と雲の欄間彫刻は注目して良い。
庫裡 昭和四六年五月改築。七五坪。
墓地 古い五輪塔五、宝篋印塔六がある。(「町田市史」より)
華巌院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「町田市史」