千手院|町田市小野路町にある真言宗豊山派寺院

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岩子山千手院|関東八十八ヶ所霊場、多摩八十八ヶ所霊場、武相卯歳観音霊場四十八ヶ所

千手院の概要

真言宗豊山派寺院の千手院は、岩子山と号します。千手院の創建年代等は不詳ながら、鎌倉時代初期に小山田二郎重義が再建したとも開闢したともいいます。その後没落してしまった当寺を嘆いた惠満が、徳川家康へ奏上、寺領12石の御朱印状を拝領し、中興したといいます。関東八十八ヶ所霊場64番、多摩八十八ヶ所霊場12番、武相卯歳観音霊場四十八ヶ所6番です。

千手院
千手院の概要
山号 岩子山
院号 千手院
寺号 -
住所 町田市小野路町2057
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



千手院の縁起

千手院の創建年代等は不詳ながら、鎌倉時代初期に小山田二郎重義が再建したとも開闢したともいいます。その後没落してしまった当寺を嘆いた惠満(或は権大僧都賢隆)が、徳川家康へ奏上、天正19年(1591)寺領12石の御朱印状を拝領し、中興したといいます。

新編武蔵風土記稿による千手院の縁起

(小野路村)千手院
境内御朱印地のうちなり、小名岩子にあり、もと境内観音堂へ十二石の御朱印を賜りて寺領とせり、ここも新義真言宗にて、高勝寺の末なり、岩手山と號す、鐘銘には岩護山とあり、されば古ばかり書しならん、元来ふるき靈場なれど、戦争の際一旦廢寺となりしが、天正年中東照宮へそのよし申上しかば、やがて寺領を賜りて再興せしめられしと云、そのときの開山を惠満と云、本堂九間に七間半、乾へ向へり、本尊彌陀木の坐像、長一尺ばかり、また観音をば、えりたる古碑あり、永仁三年二月日と刻す、これを厨子へ納めて本堂に安置せり、四十年前境内より掘出せしものなりとぞ。
観音堂。境内北の方なる山の中腹にあり、昔小山田次郎重義と云もの観音の像を感得して、堂宇をいとなみしものこれ昔の観音堂なり、當寺を開闢せしも、その時のことなるべし、故に寺號も千手を以稱せるなるべし、その堂は戦争のとき兵火にかかりて、空くその像を傳ふるのみなりしが、東照宮観音免の御朱印を賜はりしにより、富永主膳正光吉中興の僧惠満にかはりて、あらたに木像の千手観音を彫刻して、もとの像を腹中にこめ置しと云、その像は長一尺二寸、原籠の像は一寸八分ありと云傳ふれども、秘佛として住僧も見ることを得ずといへり、堂の大さ四間に五間、南向なり、前に石階百餘級あり。
鐘楼。本堂の前にあり、九尺四方、鐘は径二尺五寸、高さ三尺五寸、銘文に(銘文省略)(新編武蔵風土記稿より)

「町田市史」による千手院の縁起

千手院(小野路町)
所在地 町田市小野路町下堤字岩。
宗派 もと新義真言宗。現曹洞宗多摩高勝寺末。
山寺号 岩子山千手院。
開山 承応二癸巳年(一六五三)孟冬に鋳造した梵鐘は、昭和一九年太平洋戦に供出したが、その鐘銘には「大日本武蔵洲、多磨郡小山田荘、小野路村岩護山千手観音者、異于陀霊像、作者不知誰。世迨昆季、不知開基時代。于時有小山田二郎重義者、感得此観音霊験、再興堂舎、渇仰無懈。亦工藤一郎祐経者。祈此尊、心中之願望悉皆令成就。故修造厳重祭奠美尽。雖然乱逆難遁放火無留、堂閣寺院有名、無上占之常舎。至時哉、天正年中、東照大権現被聞召旧跡、被下寺領寄附之御朱印、大悲威力寺院繁栄世云々」とある。これは今から三二一年前の記載。そして、この鐘銘を書いた人は、再興開山恵満で、恵満は天正一九年(一五九一)徳川家康から寺領寄付の朱印を下賜されたといっているが、観音堂裏の千手院僧侶墓地にある墓碑を検索すると、再興開山は恵満でなく、権大僧都賢隆としてあり、『風土記稿』に「戦争の際一旦廃寺となりしが、天正年中東照宮へそのよし申上しかば、やがて寺領を賜りて再興せしめられしと云。その時の開山を恵満と云」とある恵満は、延宝五年(一六七七)正月二十六日亡の墓碑が別にあり、風土記の作者は、何か調査違いをしたのであろうことが判った。しかし、この再興は、恵満生前の鐘銘に承応二年(一六五三)孟冬に新鋳したとあるから、これが再興と誤られたものとみてまちがいあるまい。けれどもこれはあくまでも再興で、その以前、小山田二郎重義が再興したことを鐘銘に伝えており、これも再興であるとすれば、さらに開山はその以前ということになる。が、今は、天正以前のことについては立証すべきものがないので、天正以前のいずれの時か、平安時代か、鎌倉時代か、それとも南北朝時代か、室町時代かに草創せられた、町田市の古寺の一つであるといってよかろう。ただ現在では再興開山を恵満としている。明治二一年の「小野路村誌」には「開基年月未詳承安年間小山田二郎重義」としてあるのも、そのゆえんであろう。
朱印 一二石。この朱印も観音免として幕府の寄進を受けたのである。なお、千手院としての本尊は以前には不動とも(『鶴川村誌』)、阿弥陀(『風土記稿』)とも記されたのは、再興恵満以来曹洞宗となったもので、それ以前は観音堂だけがあり、したがって観音が本尊であったものに相違ない。今、その観音堂の千手観音を本尊に改めたのは最も適確なことといわなければならないだろう。
本堂 七間四面、流向拝付鉄筋コンクリート、入母屋瓦葺を昭和四七年新築。
観音堂 本堂と同時に三間四面の鉄筋お堂形に新築した。
鐘楼 九尺四方。昭和一九年供出の後梵鐘なし。
客殿 鉄筋一部二階建六四坪。
庫裡 木造平屋瓦葺三五坪。昭和四二年一二月新築。
本尊千手観音は富永主膳正光吉寛永五年(一六二八)奉納した。座像高一尺五寸。(「町田市史」より)


千手院の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「町田市史」