金光山観泉寺|地頭飯田右馬之助昌有の菩提、武相卯歳観音霊場四十八ヶ所
観泉寺の概要
曹洞宗寺院の観泉寺は、金光山と号します。観泉寺は、当地の地頭飯田右馬之助昌有が大坂夏の陣で元和元年(1615)に戦死、子息飯田次郎右衛門が父の菩提を弔うために、僧存祝を開山として創建したといいます。武相卯歳観音霊場四十八ヶ所45番です。
山号 | 金光山 |
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院号 | - |
寺号 | 観泉寺 |
住所 | 町田市真光寺町1210 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
観泉寺の縁起
観泉寺は、当地の地頭飯田右馬之助昌有が大坂夏の陣で元和元年(1615)に戦死、子息飯田次郎右衛門が父の菩提を弔うために、僧存祝を開山として創建したといいます。
新編武蔵風土記稿による観泉寺の縁起
(眞光寺村)観泉寺
除地、高七斗五升、小名上にあり、金光山と號す、曹洞宗、小山田村大泉寺末、寺傳云、もとの地頭飯田右馬助昌有、元和元年大坂御陣に供奉して五月十日戦死せりとおもふに、かの時は七日の日まで合戦はありしなれば、昌有合戦にのぞみ手負て療養など加へたれど、とかく癒ずして十日に至り死せしなるべし、その子次郎右衛門某父が菩提の爲、僧存祝を開山として當寺を造立せりとぞ、存祝は寛永七年正月廿六日寂せり、開基昌有が出陣の時の武器馬具の類は村民のクチトリを勤めしもの馬にとりのせて歸り来り、頓て當寺の什寶とせしが、明和、安永の間ふたたびの回禄に皆烏有となりしと云、かの市右衛門が子孫は今に村民に殘れり、本堂七間半に五間半、南向なり、本尊聖観音、木の坐像、長一尺二寸、行基菩薩の作と云。(新編武蔵風土記稿より)
「町田市史」による観泉寺の縁起
観泉寺(真光寺町)
所在地 町田市真光寺町字上一二一〇。
宗派 曹洞宗。小山田大泉寺末。
山寺号 金光山観泉寺。
開基 飯田次郎右衛門。父右馬之助昌有、徳川家康に従って大坂城攻略に出陣、元和元年(一六一五)五月一〇日戦死。昌有の供養のため建立した。
開山 存祝。寛永七年(一六三〇)正月二六日寂。
本尊 聖観音、木座像、長一尺二寸。伝行基作。
寺宝 昌有遺品は、昌有の出陣の馬の口取りをした村民市右衛門が、遺骨とともに馬の背に乗せ持ちかえって寺宝としていたが、明和・安永と二回の火災のため烏有に帰し、今はない。
本堂 七間半に五間半、南向のものがあったが、目下再新築のため取り払って皆無である。昭和五十年一一月、四八坪、木造の本堂落慶。
庫裡 いまは木造瓦葺二階建の仮のものがある。(「町田市史」より)
観泉寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「町田市史」