東向山簗田寺|簗田半兵衛正勝が開基
簗田寺の概要
曹洞宗系単立寺院の簗田寺は、東向山と号します。簗田寺は、簗田半兵衛正勝(承応元年1652年没、法名簗田寺性山樹見)が開基となり寛永6年(1629)創建、鐡春(万治2年1659年寂)が開山したといいます。
山号 | 東向山 |
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院号 | - |
寺号 | 簗田寺 |
住所 | 町田市忠生2-5-33 |
宗派 | 曹洞宗系単立 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
簗田寺の縁起
簗田寺は、簗田半兵衛正勝(承応元年1652年没、法名簗田寺性山樹見)が開基となり寛永6年(1629)創建、鐡春(万治2年1659年寂)が開山したといいます。簗田半兵衛正勝の長子隠岐守直次に子がなく家名断絶、所領を寺院として建立したといい、簗田半兵衛正勝の法名簗田寺性山樹見と、正勝の妻の法名東向院本叟栄心より山寺号としたといいます。
新編武蔵風土記稿による簗田寺の縁起
(山崎村)梁田寺
境内八段一畝十八歩、除地、曹洞宗、入間郡越生龍穏寺末、東向山と號す、寛永六年地頭梁田半兵衛正勝建立して僧鐡春を以て開山とす、鐡春は萬治二年八月廿日寂せり、半兵衛正勝は承應元年十二月九日没す、法號は梁田寺性山樹見、その妻を東向院本叟榮心と云、夫婦の法號を採て寺號とせしなり、又寺領として四町八段一畝十八歩の地を寄附して、永く修理の料に充つ、されど梁田が家絶て後此地御代官所となりしかど、尚舊によりて除地となれり、當寺に東福門院の御靈牌あり、これは正勝が長男隠岐守直次が、東福門院へ附せられて久しく在京せし故に、薨ぜられしのち御靈牌を造りて、當寺へ安置し奉りしと云、又直次が守護の千手観音一軀あり、長一尺五寸ばかり、木の立像なり。
鐘楼、本堂の前にあり(銘文省略)
門。東に向せり。
稲荷社。境内にあり、わづかなる祠なり、正一位安産稲荷と號す、二月初午の日湯立を執行す。(新編武蔵風土記稿より)
「町田市史」による簗田寺の縁起
梁田寺(山崎町)
所在地 町田市山崎町一六六。
宗派 曹洞宗。埼玉県入間郡越生龍穏寺末であったが、いまは福井市本山永平寺末。
山寺号 東向山簗田寺。
開基 簗田半兵衛正勝、寛永六年(一六二九)建立。正勝は承応元年(一六五二)一二月九日歿。
法号簗田寺性山樹見。正勝の妻法号東向院本叟栄心。夫妻の法号より山寺号が出た。
開山 僧鉄心、万治二年(一六五九)八月二〇日示寂。
本尊 釈迦。このほかに正勝の長男直次の護持仏千手観音、木立像、長一尺五寸のもの一駆ありしと『風土記稿』にあるが、今もあるだろうか。
本寺創立由来 簗田正勝の長子隠岐守直次は、徳川秀忠の息女和子入内のお付きの武士として長く在京、子なくして梁田家断絶のやむなきに至った。そこで正勝は、その所領四町八反一畝一八歩を寺院修理料として寄付、後世を弔うため一寺を創立した。これが簗田寺で、秀忠息女は東福門院とよばれたのがこれ。今も、東福門院の霊牌を安置する。
本堂 正面六間、奥行六間。入母屋瓦葺、向拝三間に九尺のものがある。
庫裡 亜鉛葺木造平家。
客殿 玄関二間間口付瓦屋根二階造り。
そのほか参禅道場四間四面。倉庫五間半に二間。いずれも亜鉛葺木造建物がある。
稲荷社 九尺に二間の地主神。中に三尺坊烏天狗の石碑、三尺のものを納めている。そして、この稲荷祠前に東京都指定(昭和三六年一月三一日)天然記念物ハリギリの大樹がある。
その他、本堂裏に梁田隠岐守夫妻の大五輪塔と大宝篋印塔の墓碑がある。(「町田市史」より)
簗田寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「町田市史」