山王山円成寺|北條氏綱に仕えていた当地の領主山中修理亮が出家
円成寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の円成寺は、山王山紫王院と号します。円成寺は、北條氏綱に仕えていた当地の領主山中修理亮(天正12年1582年寂)が出家して空存となり、当寺を開創したといいます。
山号 | 山王山 |
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院号 | 紫王院 |
寺号 | 円成寺 |
住所 | 町田市鶴間5-17-1 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
円成寺の縁起
円成寺は、北條氏綱に仕えていた当地の領主山中修理亮(天正12年1582年寂)が出家して空存となり、当寺を開創したといいます。
新編武蔵風土記稿による円成寺の縁起
(鶴間村)圓成寺
境内除地、千六百五十坪、小名宿にあり、浄土真宗、西本願寺末、紫王山と號す、開山空存はもと小田原北條家の侍にて、山中修理亮といひしものなり、後に遁世して僧となり、當寺をひらきしと云、天正十二年寂せり、按に山中修理亮は、北條左京太夫氏綱につかへて、數度武略を顯はせし功の者にて、その比武士司に補せられしこと【北條五代記】に見へたり、又『小弓御所御没落記』に云、天文六年八正院義明討死の時、小弓の侍逸見山城入道詳仙のつづいて討死せんとせしとき、山中修理亮よき敵とめざして馳来りしかば、詳仙いさぎよく首をのべ討れんとせしとき、さすがに山中も感にたへずして、うつわれもうたるるひとももろともにをなしうてなのなかにならまし、と詠ぜりと云云、修理亮が心ばへおもひやらるべし、本尊彌陀の立像を客殿に安置す、この像は惠心僧都の作なりと云ふ、長二尺にあまれるなり。(新編武蔵風土記稿より)
「町田市史」による円成寺の縁起
円成寺(鶴間)
所在地 町田市鶴間字宿。
宗派 浄土真宗。京都西本願寺末。
山寺号 山王山紫王院円成寺。
開山 元禄一三年(一七〇〇)鋳造の鐘銘をみると、「開基。釈氏、了雲比丘。釈氏空存和尚。釈氏存永和尚」と刻してある。しかるに、『風土記稿』には、「開山空存はもと小田原北条家の侍にて、山中修理亮といひしものなり。後に遁世して僧となり、当寺をひらきしと云。天正十二年寂せり。按に山中修理亮は、北条左京太夫氏綱につかへて、数度武略を顕はせし功の者にて、その比武士司に補せられしこと、北条五代記に見えたり」とあって、開山は空存としてある。この点について、私見をさしはさむと、鶴間宿は、大ヶ谷戸とも通称し、鎌倉幕府開設以来、鎌倉より相模国津久井、あるいは武蔵国秩父にかよう鎌倉道が発生し、この道に沿って発達したのが大ケ谷戸で、今でも「屋敷山」の地名を残す山林がつづいている。そして、この屋敷山西端に丸山と呼ぶ地点があり、ここに昔尼寺があったことを伝えるので、円成寺はもとこの地に発生したものではなかろうかとも考えられる。すなわち、鐘銘の釈氏了雲比丘がそれであるまいか。目下、この地は、東急住宅地として造成中だが多数の骨壺が出で、地人は丸山城址なりともいっている。思うに、鶴間には山中修理亮貞信塁址があって、かれは小田原落城以前発心遁世して僧となったことは、「小弓御所没落記」に「天文六年(一五三七)八正院義明(三浦)討死の時、小弓の侍逸見山城入道詳仙もつづいて討死せんとせしとき、山中修理亮よき敵とめざして馳せ来りしかば、詳仙いさぎよく首をのベ討れんとせしとき、さすがに山中も感に堪へずして――うつわれもうたるるひとももろともにおなじうてなのなかにならまし――と詠ぜり」とあると『風土記稿』にも記してあるところから推測される。そして、この山中の後継者が鐘銘の釈氏存永和尚なのだろう。
門 冠木門、瓦葺。
本堂 間口九間半、奥行七間。木造亜鉛葺寄棟造。
鐘楼 二間四方総欅亜鉛葺。梵鐘。鐘銈に、「南無阿弥陀仏、南無不可思議光、帰命無量寿如来」と刻し、「経曰、一聴声鐘、当願衆生、脱三界可、迷証菩薩」の四行を鐘銘としている。鋳造は昭和二四年一五世祐世代。
庫裡 三〇坪木造平屋瓦葺
客殿 五五坪。鉄筋コンクリート造り。住職は、この客殿で、祖師親鸞の在家仏教としての本義を、月例法話、正信講門徒会、ボーイスカウト、ガールスカウト等によって生かしてゆきたいといっているが、これは、仏教の進路として新しい。
本尊 弥陀木立像、高二尺。恵心作と伝えるが、後世修復したので今は定かでない。
境内 延享三年(一七四六)三月村差出帳に、「東西五十五間、南北三十三間」とある。(「町田市史」より)
円成寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「町田市史」