牟礼神明社|三鷹市牟礼の神社
牟礼神明社の概要
牟礼神明社は、三鷹市牟礼にある神社です。牟礼神明社は、天文6年(1537)北条氏綱の家臣北条冶部少輔綱種(牟礼の高橋家の祖)が深大寺城に対峙した際、当地(高番山)陣内守護として飯倉神明宮の御分霊を勧請して創建、明治元年稲荷山(高山)に祀られていた稲荷神社を合殿したといいます。
社号 | 神明社 |
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祭神 | 天照皇大神 |
相殿 | 倉稲魂命 |
境内社 | 三峰神社・榛名神社 |
住所 | 三鷹市牟礼2-6-12 |
祭日 | - |
備考 | - |
牟礼神明社の由緒
牟礼神明社は、天文6年(1537)北条氏綱の家臣北条冶部少輔綱種(牟礼の高橋家の祖)が深大寺城に対峙した際、当地(高番山)陣内守護として飯倉神明宮の御分霊を勧請して創建、明治元年稲荷山(高山)に祀られていた稲荷神社を合殿したといいます。
新編武蔵風土記稿による牟礼神明社の由緒
(無礼村)神明社
除地、3畝、村の中ほどにあり、上屋僅に1間四方許、昔当所へ成せられし時の御殿、ならびに御道具をたたみて此地に埋め、其上に此祠を勧請すと云傳へり。村民の持なり。(新編武蔵風土記稿より)
「三鷹市史」による牟礼神明社の由緒
祭神、天照大神、合祀倉稲魂命。祭礼日10月第1日曜日。天文6年(1537)北条氏綱の家臣北条冶部少輔綱種(牟礼の高橋家の祖)が深大寺城に対峙し、牟礼の丘陵に築陣、陣内の鎮護のため同年芝飯倉神明宮より分祀、この地に勧請したという。現在の社殿は嘉永3年(1850)の建築である。境内社として三峰・榛名の2社がある。(「三鷹市史」より)
境内掲示による牟礼神明社の由緒
神明社
天照皇大神
合祀:倉稲魂命
牟礼2−1045
この神明社は、牟礼の開祖、北條常陸之介康種(牟礼の開村は天正十八年西暦一五九〇年)の父北條治部少輔綱種(本氏高橋将監種政、北條早雲に養育され軍師多目氏に従学し伊豆韮山城に住んだ。北條左京大夫氏綱の時、大道寺方に配属され江戸城を攻略した。戦功あって御猶子に准ぜられ家号を賜い、北條常陸之介綱種と改め相州甘縄の城代となる。北條氏康の命あって治部少輔と進んで武蔵国の鎮衛の司として江戸城主となる)
大永四年正月上杉修理大夫朝興を攻略した。上杉氏は河越に敗走天文六年四月河越城に没した。五郎朝定は父の遺志を継いで江戸城を復さんと図る。天文六年七月老臣難波田弾正を以って深大寺城に出陣。主命あって綱種は江戸城を進発し深大寺城に対峙して砦を築く。天文六年十一月十五日西暦一五三七年綱種は陣内鎮護のために芝の飯倉神明宮の御分霊を勧請し高番山(現在地)に祀る。合祀された稲荷神社は往年村人の結衆に依って稲荷山(高山)に祀らていた。明治元年太政官布告神仏判然令に基き氏子の総意によって合殿された。
以上が牟礼の鎮守と崇められて今日に至るを略記する。
昭和五十五年九月吉日牟礼郷土史研究会(境内掲示より)
牟礼神明社所蔵の文化財
- 石燈籠(巳待講)(三鷹市指定文化財)
石燈籠(巳待講)
井の頭辨財天への道標を兼ねて牟礼村の巳待講が建てた常夜灯である。以前は高井戸から連雀への道と井の頭道の分岐する角(現在の牟礼2丁目交差点付近)にあった。
幕末期、嘉永3年(1850)の建立であり、竜の浮彫は見事である。
寄進者名に江戸講中の人名があることから江戸市中の信仰が厚かったと思われる。(三鷹市教育委員会掲示より)
牟礼神明社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿