慈眼院|青梅市成木にある曹洞宗寺院

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成佛木山慈眼院|成木石灰所久保遺跡

慈眼院の概要

曹洞宗寺院の慈眼院は、成佛木山と号します。慈眼院は、行方不明になった木崎治部(法名慈眼院救参鶴度大禅門)やその先祖を祀るため、その子孫三右衛門が虚空蔵を建立、三右衛門の弟木崎正兵衛が甥の海禅寺六世栄芝順富(天正10年1582年寂)を開山としたといいます。当寺敷地には石灰焼創始者の一人木崎平次郎の墓があるほか、左側に木崎家屋敷跡、右側に石灰製造の諸施設が残されており、成木石灰所久保遺跡として市史跡となっています。

慈眼院
慈眼院の概要
山号 成佛木山
院号 慈眼院
寺号 -
住所 青梅市成木6-326
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



慈眼院の縁起

慈眼院は、行方不明になった木崎治部(法名慈眼院救参鶴度大禅門)やその先祖を祀るため、その子孫三右衛門が虚空蔵を建立、三右衛門の弟木崎正兵衛が甥の海禅寺六世栄芝順富(天正10年1582年寂)を開山としたといいます。

新編武蔵風土記稿による慈眼院の縁起

(上成木村)慈眼院
除地、八畝、小名所久保にあり、禅宗曹洞派、郡中二俣尾海禅寺の末、成木山と號す、本堂八間半に四間南に向ふ、本尊釋迦木の坐像にて長一尺厨子に入れり、開山順當天正十年示寂す、開基は村内の里正次右衛門が祖先、木崎治部法號慈眼院救参にて、則今の院號はかの開基の法謚をもて名けたりと、されど當寺の傳へに、もとは菴なりしが、海禅寺の六世の住僧が隠遁せし菴ゆへ、海禅寺の末にくははれりなど云へば、次右衛門の祖先の開基せし頃は、纔の菴なりしならん、それらのことは傳へず。
白山祠。境内にあり(新編武蔵風土記稿より)

「青梅市史」による慈眼院の縁起

慈眼院 (成仏木山)
成木・所久保(現・成木六丁目)にあり、本尊は釈迦如来である。寺伝によると、室町時代はじめ木崎治部という者、二百三十歳の時出家して行方知れずとなり、その家出の日を忌日とし慈眼院救参鶴度大禅門の法名を贈ったという。その治部の子孫三右衛門が虚空蔵堂を建て先祖の霊を祀り、三右衛門の弟木崎正兵衛が甥の海禅寺六世栄芝順富を開山とし、治部の法名を寺号として虚空蔵堂を慈眼院としたと伝える。
境内に観音堂があり、安置の観音像は継体天皇の御代、異形の僧が来遊し刻んだとの伝えがある。この堂の鰐口(径二〇センチ)は文安二年(一四四五)の銘と所久保の地名が刻してあり、市有形文化財に指定されている。本堂東側に古色ある数基の宝篋印塔と五輪塔があり、それが木崎一族の墓と伝えている。(「青梅市史」より)


慈眼院所蔵の文化財

  • 成木石灰所久保遺跡(市史跡)

成木石灰所久保遺跡

成木地区では、北條氏照による八王子城築城等の資材として、天正年間(一五七三~一五九二)にはすでに石灰の生産が行われていたと言われている。
さらに当地の石灰が広く知られるようになったのは、江戸城増改築やその他建造物の白壁等の用材として、慶長十一年(一六〇六)、幕府が八王子代官大久保石見守に供出を命じたときからである。
石灰を製造するには、採石・・・焼成(製品化)・・・保管等の工程に伴った諸施設を必要とする。
所久保遺跡は、石灰石の石取場、石落し場、石を砕く石打ち場、石を焼く場所(窯跡)、焼石にかける水をためておいた水場、製品を保管する倉庫跡、屋敷跡等から成りたっている。
この地は江戸時代初期からひらかれたと言われ、成木地区に残る石灰に関係する遺跡の中では、最も良く保存されている。
また、当地の石灰焼創始者の一人木崎平次郎との関連も指定でき貴重な遺跡である。(青梅市教育委員会掲示より)

慈眼院の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「青梅市史」