立川諏訪神社|弘仁2年に創建、柴崎の鎮守
立川諏訪神社の概要
立川諏訪神社は、立川市柴崎町にある神社です。立川諏訪神社は、信州諏訪大社を勧請して弘仁2年(811)に創建、柴崎の鎮守だったといいます。明治四十年十一月二十七日八幡神社を合祀し、次いで明治四十三年二月十二日、浅間神社を合祀したといいます。
社号 | 諏訪神社 |
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祭神 | 建御名方命 |
相殿 | 誉田別命、木花佐久耶姫命 |
境内社 | 津島神社、大鷲神社、稲荷神社、疱瘡神社、日吉神社、金刀比羅神社 |
住所 | 立川市柴崎町1-5-15 |
祭日 | 例祭日8月27・28日 |
備考 | - |
立川諏訪神社の由緒
立川諏訪神社は、信州諏訪大社を勧請して弘仁2年(811)に創建、柴崎の鎮守だったといいます。明治四十年十一月二十七日八幡神社を合祀し、次いで明治四十三年二月十二日、浅間神社を合祀したといいます。
新編武蔵風土記稿による立川諏訪神社の由緒
(柴崎村)
諏訪明神社
社地除、五石六升二合、村の南小名出口にあり、本社一間四方、拝殿五間に二間、本社を距る事三十間許に鳥居を立、祭神健御方尊、弘仁二年七月廿七日初て當村に鎮座せり、其日を以て例祭とす、草相撲と云を修行せり、村内の鎮守、神職宮本信濃持。
末社。山王社、稲荷社。共に小社。
八幡社
社地除、二石九斗二升六合、村の中央小名横町にあり、小社といへども前に拝殿あり、四間に二間本社を距ること十五歩程に鳥居をたつ、建長四年八月十五日鎮座すと云、神體本地彌陀の像二軀あり、一は背の方假面の如くくぼに、金像にて長六寸許、僧空海鋳作といふ、近き頃村民與八郎といふもの、圓径八寸許の鏡を造りて、像の後背にたてり、鏡背に武州多磨郡立川郷芝崎村八幡宮鏡一面、家内安全、元文四年巳未八月五十嵐與八郎と雕たり、一は銅像長四寸八分、背に銘文あり、縁起によるに八幡の神體弘法の鋳作黄金佛一軀ありしが、野火のために本社拝殿燼となりしとき、其像を失へり、時の領主立川宮内の女、深く是をなげきて別に銅像一軀を鋳て神體となす、後寶永年中に及て社頭修造の時、はからず社地の松根より舊像を掘得たりと云、其時鍬の刃のあたりし疵痕なりとて、今に胸の邊にあり、是より神體二軀となれりと云、銅像の圖古佛とみゆれば上にのす(圖省略)(新編武蔵風土記稿より)
東京都神社名鑑による立川諏訪神社の由緒
当社の創立は、第五十二代嵯峨天皇の弘仁二年(八一一)七月二十七日、信州諏訪大神を勧請鎮祭したもので、創建以来実に一千二百余年を経た旧社である。しかるに天正十四年(一五八六)霜月九日、たまたま武蔵野に野火が起こり、北風強く、社殿旧記ことごとく灰燼に帰したと伝えられる。寛文十年(一六七〇)もとの神地を離れ、それより南方約六十間の地に遷して社殿を造営したのが、現在の諏訪神社である。元除地社領八石五斗八升七合八勺ほか、柴崎新田大縄二町三段歩と書にある。明治四十年十一月二十七日八幡神社を合祀し、次いで明治四十三年二月十二日、浅間神社を合祀した。(東京都神社名鑑より)
立川諏訪神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 東京都神社名鑑