廣福寺|豪族福島氏が菩提寺として南北朝時代に建立、内藤源左衛門正頼中興
廣福寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の廣福寺は、金峰山と号します。廣福寺は、当地の豪族福島氏が菩提寺として南北朝時代に建立、直菴(応永18年1411念寂)が開山したといい、南北朝時代の銘が刻された石碑が残されているといいます。その後徳川家の旗本内藤氏が福島を知行したことから、内藤源左衛門正頼(仁徳院殿力誉空勢大居士)が当寺を中興、内藤家累代の墓が境内に残されているといいます。
山号 | 金峰山 |
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院号 | - |
寺号 | 廣福寺 |
本尊 | 十一面観音菩薩像 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
住所 | 昭島市福島町2-14-7 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
廣福寺の縁起
廣福寺は、当地の豪族福島氏が菩提寺として南北朝時代に建立、直菴(応永18年1411念寂)が開山したといい、南北朝時代の銘が刻された石碑が残されているといいます。その後徳川家の旗本内藤氏が福島を知行したことから、内藤源左衛門正頼(仁徳院殿力誉空勢大居士)が当寺を中興、内藤家累代の墓が境内に残されているといいます。
境内掲示による廣福寺の縁起
開基福島宗心大姉。
福島氏は南北朝時代の当地の豪族で、寺伝によると、当山はその氏寺として建立されたという。宗心はじめ一族の墓塔とされる宝篋印塔が今も数基残存する。(境内掲示より)
新編武蔵風土記稿による廣福寺の縁起
(福島村)廣福寺
境内除地、一段五畝、村の中程にあり、金峯山と號す、済派の禅宗、當郡柴崎村普済寺末、客殿五間半に八間南向、本尊正観音木の坐像長六寸許、開山直菴應永十八年十二月朔日遷化す、中興開基は地頭内藤源助が祖先源左衛門正清、甲斐國より此地に来り住居し、當寺を再建すと、年月は傳へざれど、正清は元和八年八月廿三日此所にて卒す、力譽空勢と謚せりと云、されば年代はあらかじめ推て知べし、その空家も正保二年二月ここに歿せしよし、墓碑二三基境内にあり、されど其居住の遺跡を始め、顛末を詳にせず。
地蔵堂。地蔵は木の坐像長一尺、今堂宇廢し、假に客殿に安す。
古碑。境内南の方山丘の中腹に數基あり、文字剥落してさだかならず、其内永享二年正月日禅尼と彫たるもの、或は永和二年・文和二年八月日、及び康應・應永などの年號みゆるもあり。(新編武蔵風土記稿より)
「昭島市史」による廣福寺の縁起
広福寺(福島町)
金峰山と号す臨済宗建長寺派の寺院。開山は立川の普済寺三世直庵啓端であるが、開基と年代は明確ではない。昭和二九年改築の際に発見された棟札によれば室町時代の初期(一四世紀~一五世紀初)に普済寺の隠居寺として建立されたようである。『新編武蔵風土記』によれば、境内の山丘の中腹に数基の古碑があり、永享二(一四三〇)年・永和二 (一三七六)年・文和二(一三五三)年・応永年問(一三九四~一四二七)などの年号が刻まれていたとしているが、現在でも板碑、五輪塔が数基遺されており貴重な史料となっている。
その後荒廃の様相を呈したが、甲斐武田家の旧臣内藤源左衛門正頼(正久)が徳川家の旗本となり、福島の地を知行したことから、正頼が広福寺を再興した。その後、火災にあい宝暦六年(一七五六)三月に現本堂が再建された。
なお、内藤家は明治維新の際に正統が途絶えたが、内藤家累代の墓が境内にあり、特に、正頼の墓は市指定の文化財となっている。本導は十一面観音木座像である。かつて、享和三年(一八〇三)に寄進された梵鐘があったが、第二次世界大戦の際に供出したため、昭和三七年に新鋳したものが現在の梵鐘である。
境内にある黒松は樹令六〇〇年と言われ、市指定の天然記念物となっており、また、「二千年蓮」があり、開花の時季には観蓬の客で賑わっている。(「昭島市史」より)
廣福寺所蔵の文化財
- 内藤源左衛門正頼(正久)の墓(昭島市指定旧跡)
- 広福寺の大松(昭島市指定天然記念物)
- 広福寺台遺跡
廣福寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「昭島市史」