加藤神社|当地で討死した武田勝頼の客将加藤丹後守景忠を、村民が創祀
加藤神社の概要
加藤神社は、西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎にある神社です。加藤神社は、天正10年(1582)に当地で討死した武田勝頼の客将加藤丹後守景忠を、村民が祀り八幡社と称していたといいます。明治35年加藤神社と改称しました。
社号 | 加藤神社 |
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祭神 | 加藤丹後守景忠公 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎315 |
祭日 | - |
備考 | - |
加藤神社の由緒
加藤神社は、天正10年(1582)に当地で討死した武田勝頼の客将加藤丹後守景忠を、村民が祀り八幡社と称していたといいます。明治35年加藤神社と改称しました。
新編武蔵風土記稿による加藤神社の由緒
(箱根ヶ崎村)八幡社
除地、五間四方、街道の西傍廿間餘距てたる塚の左に在、本社四尺四方、上屋二間四方、東向、加藤丹後守の霊を祭と云、按に丹後守を村名の條には、初鹿野の氏と記し、後の圓福寺及びここには又加藤と書せり、初鹿野氏は加藤氏の同流なれば、この丹後守は同人なること論なかるべけれど、加藤初鹿野を並び用ひしゆえんはしらず、此家の子孫は舊家にて、荏原郡上目黒村にあれば、その條を并せみるべし。(新編武蔵風土記稿より)
「瑞穂町史」による加藤神社の由緒
境内に径六間(一〇、八メートル))ばかりの円墳があったが(国道十六号線造成の為消滅した)此処で天正十年四月十一日、武出滅亡の際上野原の城主加藤丹後守一族が討死、里人がその地に小祠を営んで丹後守を肥ったのが神社の発祥であるという。寛政年代より民間の信仰が盛んになった。円福寺と関係が深く、丹後守の遺品が円福寺に所蔵されている。(この神社の縁起は本町史上しばしば記されている)(「瑞穂町史」より)
「東京都神社名鑑」による加藤神社の由緒
天正十年(一五八二)四月十一日、甲斐武田勝頼の客将加藤丹後守景忠公が、この地において北条氏の軍と戦い戦死した。村民崇めて八幡社と称し祀った。のち明治三十五年二月一日加藤神社と改称。(「東京都神社名鑑」より)
加藤神社所蔵の文化財
- 加藤塚跡地
加藤塚跡地
武田氏の滅亡後、その家臣であった加藤丹後守景忠は妻子及び数名の家来をつれて当地まで逃れてきた。多磨郡を越えて入間郡に入る事ができずこの地で果てた。天正十年(一五八二)四月十一日のことである。
村民はその死をあわれみ、直径十一メートル、高さ一、五メートルの塚を築き葬った。二基の五輪塔はその当時のものと思われる。
寛政年間(一七九〇年代)に至り、加藤氏の後裔といわれる上野原の加藤最次郎が石塔を建てたり、練馬区の子孫が円福寺に馬上丹後守像等を納めたのをきっかけに、村民の間にも信仰の念が深まり、加藤八幡宮が建立された。
塚の上には、周囲約八メートルの大欅をはじめ、杉・桜・くぬぎ等の大木が茂っていたが戦後航空障害と都道百十六(旧国道十六)号線の開通のため伐採された。そして、この度、都道拡張に伴い、塚を現在の地に移し、社も新築した。それに伴って、町史跡だった加藤塚を町旧跡と改めた。(瑞穂町教育委員会掲示より)
加藤神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 瑞穂町史
- 東京都神社名鑑