奥氷川神社|西多摩郡奥多摩町氷川の神社

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奥氷川神社|三氷川神社の一社、上氷川神社

奥氷川神社の概要

奥氷川神社は、西多摩郡奥多摩町氷川にある神社です。奥氷川神社は、日本武尊が東国平定の折に素戔嗚尊・大己貴命を祀って創祀したと伝えられます。その後牟邪志国(後の武蔵)最初の国造である出雲臣伊佐知直が多摩川下流に拠点をもち、その上流奥多摩氷川の愛宕山の地形を祖国出雲で祖神を祀る日御碕神社の神岳と見たて、ここへ祖神の氷川神を勧請したのではないかといい、牟邪志、知々夫両国の合一によって本拠の国街を府中に移して氷川神を中氷川神社へ、さらに大宮氷川神社へ移したのではないかとも推測されます。貞観2年(860)簸川修理大輔土師行基が再興、社号を奥氷川大明神とし、明治維新後には村社に列格していました。経緯から上氷川神社とも称されています。

奥氷川神社
奥氷川神社の概要
社号 奥氷川神社
祭神 素戔嗚尊、奇稲田姫命、建御名方命
相殿 -
境内社 両輪社、神明社、山祇神社、熊野神社、稲荷神社、杵築神社、竜田神社
住所 西多摩郡奥多摩町氷川178
祭日 例大祭8月10日
備考 -



奥氷川神社の由緒

奥氷川神社は、日本武尊が東国平定の折に素戔嗚尊・大己貴命を祀って創祀したと伝えられます。その後牟邪志国(後の武蔵)最初の国造である出雲臣伊佐知直が多摩川下流に拠点をもち、その上流奥多摩氷川の愛宕山の地形を祖国出雲で祖神を祀る日御碕神社の神岳と見たて、ここへ祖神の氷川神を勧請したのではないかといい、牟邪志、知々夫両国の合一によって本拠の国街を府中に移して氷川神を中氷川神社へ、さらに大宮氷川神社へ移したのではないかとも推測されます。貞観2年(860)簸川修理大輔土師行基が再興、社号を奥氷川大明神とし、明治維新後には村社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による奥氷川神社の由緒

(氷川村)
氷川明神社
除地五畝十歩、甲州裏道の傍にあり、村内の總鎮守なり、本社南向、一丈餘四方、祭神素戔嗚尊、稲田姫命、拝殿六間に三間、このうちに大巳貴命・少彦名命の二祠あり、本社の前に石階あり、下に鳥居を建、其下に又石階あり、村名もこの神社より起りしと云へば、舊き社なるべけれど、鎮座の年歴を傳へず、例祭正月五日・四月十七日・八月朔日の三日を以て行へり、神主河邊數馬。
神明宮。わづかなる祠にて本社の後背にあり、祭る所神明なれば、氷川社地にあれども、かへつて是を奥神殿と稱す。
稲荷社。
蛭子社。
疱瘡神社。いづれも本社の東にあり、わづかなる祠なり、この外に大巳貴命を祭れる祠及少彦名命を祭れる祠あり、この二神は舊き神なればとて、本社とはいはずして攝社と稱せり。(新編武蔵風土記稿より)

「奥多摩町史」による奥氷川神社の由緒

中世、和田村(現在の青梅市和田町と日向和田)以西の地を氷川郷(時代的部分的には野上郷の呼称もある)と呼んでいましたがこの郷名は奥氷川神社の社号から起こったものでこの社の歴史の古さが証明できます。
奥氷川神社の祭神は速須佐之男命、櫛稲田姫命で、もと奥氷川大明神と呼び相殿として建御名方命が祭られ、これを諏訪大明神と呼んでいました。社記によってこの社の沿革を示すと次のようになります。
景行天皇の御代 日本武尊東国平定の折、素戔嗚尊、大己貴命が陣中を守護され、これによって祀られたのを起源とする。
貞観二年 簸川修理大輔土師行基が再興して社号を奥氷川大明神とする。
嘉応三年 相殿として建御名方命を祀る。
貞治三年 細川頼春の家人、村野武清、祭祀を起こしその裔相継ぎ奉仕して近代に及ぶ。
明治二年 官令により社号を奥氷川神社、相殿を諏訪神社と改める。
明治十五年 本殿の位置を奉遷、拝殿を新築する。
この社記がいうように日本武尊云々(御岳神社、大岳神社にもある)は各地各社の縁起にもあることでこれを歴史として信ずることはできませんが貞観二年(八六〇)簸川修理大輔(出雲系、氷川神家の人か)が再興して奥氷川大明神と称したというのは或いは事実の一端を投影しているかと思われます。
奥氷川神社明細帳に
武蔵國、氷川ノ社大小数十社アリト雖トモ就中足立郡大宮鎮座一ノ宮氷川神社ニ対シ入間郡三ケ島村長宮ヲ中氷川神社ト称シ当社ヲ奥氷川神社ト称ス、一ツニ上氷川トモ称ス
と、あり、特選神名帳入間郡中氷川神社の条には、
入間郡氷川村中氷川神社、式内足立郡氷川神社竝ニ多麻郡杣保内氷川村鎮座上氷川神社里程中央ニシテ当村鎮座中氷川神社ナリ
とあって大宮-長宮(中宮か)-奥宮。氷川-中氷川-奥氷川と一線につながり、この社が武蔵三氷川の一社といわれる所以がわかります。
牟邪志(後の武蔵)最初の国造は出雲臣伊佐知直ですが考証によれば、このの出雲臣は当初多摩川下流に拠点をもち、その上流奥多摩氷川の愛宕山の地形を祖国出雲で祖神を祀る日御碕神社の神岳と見、ここへ祖神の氷川神を勧請したのが武蔵に数多い氷川神社の起源で、牟邪志、知々夫両国の合一によって本拠の国街を府中に移して氷川神を中氷川へ、さらに大宮へ移したのだろうといわれるのです。
出雲の元国幣中社日御碕神社は素戔嗚尊を祭り、ここには愛宕山と酷似した独立山があってこれを隠岳といい社伝によれば素戔嗚尊が熊成峰(韓国)で柏占をされてここへ天下られたといい、ここは禁足地になっているということです。
愛宕山麓の登計に手名槌神、足名槌神二柱を祭る阿羅波婆岐社がありました。現在は愛宕神社へ合祀されていますが、いうまでもなくこの二神は須佐之男命の妃神、櫛稲田姫命の父母神ですからこの神が須佐之男命を勧請された愛宕山の麓に把られていたということは愛宕山、即氷川神ということについて一つの傍証となりましょう。
御相殿諏訪明神の建御名方命は大国主命の国譲りに当って諏訪国(長野県)へ遷られて諏訪神となられ、多摩地区とはなじみの深い神さまで各地に名杜がありますが本町地内にはここのほかには祭られていないようです。諏訪大社にはこの神を讃仰して「日本第一大軍神」という標識が建てられています。
中世の奥氷川神社の境内は今の奥多摩駅附近まで延びていてここを大木戸と呼び神主屋敷があったという伝承もあります。今の境内は道路改修のため狭められていますが東京都指定の天然記念物三本杉(ここが中世の中心地か)のほか数十本の巨木が茂り、八月十日の例祭日には獅子舞や神輿行事、羽黒三田神社の屋台ばやしも同日行われて近郷第一の大祭りです。(「奥多摩町史」より)

「東京都神社名鑑」による奥氷川神社の由緒

もと奥氷川大明神と称し、相殿に諏訪大明神を祀る。鎮座起源は景行天皇五十二年、日本武尊東征の時に、陣中の守護神として素戔嗚尊、大己貴命をこの地に祀ったのが創始という。光仁天皇の宝亀二年(七七一)奇稲田姫を合祀、清和天皇の貞観二年(八六〇)、簸川修理大輔土師行基これを再興して社名を奥氷川大明神と改め、この地を氷川と名付けた。埼玉県大宮市の武蔵一ノ宮氷川神社に対して、埼玉県入間郡三ケ島に中氷川神社があり、当社を奥氷川神社と称した。別に上氷川ともいう。以後奥氷川を公称し、細川頼春の臣村野忠一がこの地に来たり、その子武清が文和三年(一三五四)祭祀を行って以来、その裔奉仕し、寛文八年(一六六八)四月、代官曾根五郎左衛門が本村査縄のさい八畝十歩を除地した。現社殿は元禄年間(一六八八-一七〇四)の造営という。明治二年奥氷川神社と改めた。(「東京都神社名鑑」より)


奥氷川神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 奥多摩町史
  • 東京都神社名鑑