狭山池。西多摩郡瑞穂町にある名所旧跡

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狭山池。歌に詠まれた名所、蛇喰い次右衛門の伝承

狭山池の概要

狭山池は、西多摩郡瑞穂町にある名所旧跡です。狭山池は、古多摩川が流れていた頃、深くえぐられ窪地にできた池で、かつては筥ノ池と呼ばれ、狭山とともに古くから知られた名所です。平安時代の歌集「六帖」や、「八雲御抄」(鎌倉時代初期)・「夫木集」(鎌倉時代後期)・「北國紀行」(室町時代)などにも狭山池を詠んだ歌が記載され、池も現在よりはるかに大きかったといいます。江戸時代には、玉川上水へ流す助水としても利用されていました。文化4年(1807)に池さらいが実施され、狭山池が現在の大きさになったといいます。狭山池に関して、蛇に絡まれた次右衛門が、蛇をほどこうと蛇に噛みついたところ、蛇が大蛇となり、傷口から血が七日七夜流れ続け、退治された池の水が涸れて小さな池となったという「蛇喰い次右衛門」の伝承がありますが、玉川上水へ流す助水や、池さらいを背景にしているのではないかといいます。池内に祀られている弁財天の由緒は不詳ながら、新編武蔵風土記稿の絵図にも描かれていることから、江戸時代後期には祀られていることがわかります。昭和26年に都立狭山自然公園として整備されています。

狭山池
狭山池の概要
名称 狭山池
見どころ 名所
入場時間 -
入場料 無料
住所 西多摩郡瑞穂町箱根ケ崎、都立狭山自然公園
備考 -



狭山池の由来

狭山池は、古多摩川が流れていた頃、深くえぐられ窪地にできた池で、かつては筥ノ池と呼ばれ、狭山とともに古くから知られた名所です。平安時代の歌集「六帖」や、順徳天皇が著した歌論書「八雲御抄」(鎌倉時代初期)・藤原長清の「夫木集」(鎌倉時代後期)・堯惠の「北國紀行」(室町時代)などにも狭山池を詠んだ歌が記載され、池も現在よりはるかに大きかったといいます。江戸時代には、狭山丘陵から流れ出す残堀川を狭山池に流し、さらに玉川上水へ流す助水としても利用されていました。文化4年(1807)に池さらいが実施され、狭山池が現在の大きさになったといいます。狭山池に関して、蛇に絡まれた次右衛門が、蛇をほどこうと蛇に噛みついたところ、蛇が大蛇となり、傷口から血が七日七夜流れ続け、退治された池の水が涸れて小さな池となったという「蛇喰い次右衛門」の伝承がありますが、玉川上水へ流す助水や、池さらいを背景にしているのではないかといいます。

境内掲示による狭山池について

狭山池
この辺一帯は、古多摩川が流れていた頃、深くえぐられ窪地となった所である。大雨が降ると周辺の水が集まり、丸池を中心とした約十八ヘクタールは水びたしになり粘土質のため、水はけが悪く耕作できず、芝地になっていた。
鎌倉時代の歌集八雲御抄に「筥の池、武蔵國」とあり、同時代の夫木集に
冬深み 筥の池辺を朝行けば 氷の鏡 見ぬ人ぞなき
と詠まれ、古くから世に知られた池であった。
農耕不適の広い芝原は、天明の打ちこわしの集合場所や、幕末の農兵訓練の場所ともなった。
江戸時代のはじめ狭山丘陵から流れ出す残堀川に狭山池の水を流し、玉川上水の助水とした。
その後、文化四年(一八〇七年)に大がかりな池さらいをした記録がある。そのため池の水位が下がり現在の規模となった。
蛇喰次右衛門の伝説もこのような事情から生まれたものであろう。
明治から昭和にかけて芝地の大部分は農民に払い下げられたがのこった池及びその周辺(約一~二ヘクタール)は、昭和二十六年に都立狭山自然公園として生まれかわり町民の憩いの場所となった。(瑞穂町教育委員会・瑞穂町文化財保護審議会掲示より)

新編武蔵風土記稿による狭山池について

(箱根ヶ崎村)
筥ノ池
村の西に民居あり、それより一町餘を隔てし池なり、今は東西十間許、南北八間許、狭山の麓にあれば、狭山の池とも云り、是も舊き世よりの名所にて、古歌にも多く爰のことを讀たり、其一二を左にのす、
【夫木集】仲實朝臣の歌、春ふかみさやまの池のねぬなはの、苦しげもなく鳴かはづかな、同書卜部兼昌の歌に、あやめ草さやまが池のながき根を、是もみくりのならひにぞひく、同書隆祐の歌に、みくりくるさやまが池の便にし、かけはひかれぬ青柳の糸、
【六帖】、歌に、武蔵なるさやまの池のみくりなは、引はたえすや我と絶ぬる、同書秀能の歌に、跡分し狭山は雪に埋れて、池のみくりはくる人もなし、同書光俊の歌に、狭山なる池のみくりは根もみねと、うちはへひとのくるそまたるゝ、
堯惠【北國紀行】に、武蔵野を分侍るに、野徑のほとり名に聞えし狭山あり、朝の霜をふみ分てゆくに、わづかなる山の裾にかたちばかりなる池あり、氷ゐし汀のかれ野ふみ分て、行はさやまか池のあさ風、
今此池の東に分水の道あり、引口幅九尺許もあるべし、こゝより石畑・殿ヶ谷・澤岸・三ツ木等數村の田間一理餘を流れ、砂川村の北裏にて多磨川浄水に合せり、則多摩川上水の助水となれり、北流村の中程にして僅なる橋を架せり、

土人殘堀と云、其名義をたづぬるに、往昔筥の池の邊にて、其あたり土民の蛇を殺せしことあり、其血この堀を流れしゆへ蛇堀と唱へしを、今は訛て殘堀と唱ふるよしをいへり、かたかた虚誕の事蹟をも附會したれど、土人の言もとより信とするに足ざればもらせり、(新編武蔵風土記稿より)


伝承「蛇喰い次右衛門」について

蛇喰い次右衛門
昔、狭山池は「筥ノ池」と呼ばれ、18町歩(17.8ヘクタール)もある大きな池でした。
とても暑いある日、百姓の次右衛門が「筥ノ池」で水浴びをしました。すると小さな蛇が絡みついてきました。必死で放そうとしますが、さらに体を締め付けてきます。力持ちの次右衛門はその蛇をつかみ噛みつきました。とたんに空は大荒れとなり、小さな蛇が大蛇となり、傷口からは血が七日七夜流れ続けました。退治された蛇とともに池の水は枯れ、小さな池となりました。その時の水の流れが、さながら大蛇のようであった様子から「蛇堀川」と呼ばれ、後に「残堀川」となりました。
このおはなしは、狭山池(筥ノ池)から残堀川へ堀をつなぎ、池の水を玉川上水の助水としたことを反映して生まれました。(瑞穂町石碑より)

狭山池公園にある文化財

  • 常夜燈

常夜燈

この常夜燈は慶応元年(一八六五年)に日光街道と残堀川が交わる地点にかけられた石橋のたもと(村野家わき)に建てられたもので、引又(埼玉県志木市)の石工弥十良の作という。
この頃は、狭山池周辺で農兵の訓練があり百姓一揆が押し寄せるなど不安の多い時代あった。また幕末のあわただしさを反映して人馬の通行も多かった。このような状況の中で、燈明をともし、通行人の道しるべにするとともに、天下泰平、村内安全を祈ったものである。
総高約五メートル、台座には有名な中国の故事などの豊かな彫刻があり、近村でも珍しい大燈籠であった。
その後、関東大震災で倒壊したため、狭山神社境内に置かれ、昭和六十一年狭山池公園の整備に際し、火袋破損箇所を修復し、現在地に再建した。(瑞穂町教育委員会・瑞穂町文化財保護審議会掲示より)

狭山池の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿