寶光寺|西多摩郡日の出町平井にある曹洞宗寺院

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鹽澤山寶光寺|寺領10石の御朱印状

寶光寺の概要

曹洞宗寺院の寶光寺は、鹽澤山と号します。寶光寺の創建年代等は不詳ながら、菩提院と称する天台宗寺院で、源頼朝から寺領10石の御朱印状を受領した大寺だったといいます。その後衰退した当寺を文明10年山梨県廣厳院四世以船文済禅師が曹洞宗に改めて塩澤山寶光寺と称して開山、徳川家康の関東入国に際しては寺領10石の御朱印状を受領、末寺13ヶ寺を擁していた中本寺格の寺院だったといいます。

寶光寺
寶光寺の概要
山号 鹽澤山
院号 -
寺号 寶光寺
住所 西多摩郡日の出町平井3392
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 秋川霊園
備考 -



寶光寺の縁起

寶光寺の創建年代等は不詳ながら、菩提院と称する天台宗寺院で、源頼朝から寺領10石の御朱印状を受領した大寺だったといいます。その後衰退した当寺を文明10年山梨県廣厳院四世以船文済禅師が曹洞宗に改めて塩澤山寶光寺と称して開山、徳川家康の関東入国に際しては寺領10石の御朱印状を受領、末寺13ヶ寺を擁していた中本寺格の寺院だったといいます。

新編武蔵風土記稿による寶光寺の縁起

(平井村)
寶光寺
境内、凡四萬坪、小名鹽澤にあり、禅宗曹洞派、甲斐國八代郡中山廣嚴院の末なり、鹽澤山と號す、寺領十石の御朱印を附せらる、當寺はこの邊にての大刹にして、境内もことに廣く、その間に四十八礀ありなど土人いへり、文明年中以船文済の草創するところなり、文済は天文八年の九月十日に寂せり、
惣門。境内、入口にあり、志那道本が筆にて、鹽澤山の三字を扁せり、この門に向て左の方に制札あり、其文左に

一禁殺生事、
一境内無案内往来すへからさる事
一三内立木幷落葉下草等盗取候者ハ過料可依其品事、
寛永十九年九月
中門。惣門を入て正面にあり、反字二重桷銅瓦葺の門なり、兩柱の間一丈ばかり、
山門。中門の内にあり、三間に四間の樓門なり、正面に寶光禅寺の四字を扁す、これも道本の筆なり、前面の左右に仁王を置く、裏面の左右に持國・廣目・多聞・増長の四軀を安す、又樓上には彌陀の木像を本尊とし、その餘百觀音及不動傳大士の木像を安置す、
本堂。山門を入て正面にあり、十一間に七間、本尊正観音の木像、長一尺一寸なるを安す、脇士は毘沙門・不動の木像にて長各八寸、此餘大権現達磨及開山の木像をおけり、堂の左右をかこみて階廊建てつらねたり、
鐘樓。山門に向て右の方にあり、九尺四方の樓にて、元禄五年鑄造の銘を鐫せり、その文左の如し、(銘文省略)
湯権現社。境内、裏門の邊にあり、不動の木像を神體とす、前に出せし温泉鎮護の爲に勧請する處なりと云、鳥居に鹿湯大権現の五字を扁せり、社前に石燈籠一基あり、銘に武州多磨郡平井郷鹽澤山遊権現寶前、從五井下溝口豊前守源信勝、貞享三丙寅年十一月如意日、溝口源左衛門と鐫す、(新編武蔵風土記稿より)

境内石碑による寶光寺の縁起

当山の御本尊は聖観世音菩薩を安置す、開創は不詳だが旧天台宗菩提院と称し、治承四年源賴朝公の宿願により建久三年寺領拾石の御朱印寺となる。爾来国政の変遷にともない元弘建武中乱世により衰廃し文明十年山梨県廣厳院四世以船文済禅師が開山となり天台宗を改め塩澤山寶光寺となる。
開山の文済禅師寺領の山麓に硫黄の湯出する温泉を発見し武蔵野の名刹鹿の湯として今もその名残りを現存す。天正の時徳川家康公により再度寺領拾石の御朱印を給りすこぶる宗風を振起し末寺十有三ヶ寺を有する本寺である。慶長十一年に火災のため全堂焼失し寛永に至り本堂が復興されたが、明治十五年三月大久野村よりの山火事で諸堂宝物悉く焼失す。同年本堂再建されたが明治三十四年に再度本堂焼失し末寺宗劔寺本堂を移築仮本堂として造立すと古文書に云々。法燈を守り続けて復興の機運を念願し現住三十二世再三にわたり檀信徒総会を開催し悲願を成就すべく昭和三十七年に寺領の山林に杉檜の植林事業をなす。昭和四十三年には首都国民のため霊園建設計画を立案し昭和四十五年三月秋川霊園の開園に至る。度重なる檀信徒総会の結果、当山復興建設委員会が発足、調査研究を重ねて七堂伽藍の第壹期工事として本堂開山堂東司の起工を決定し、昭和五十一年三月に竣工同年四月十一日入佛式を修行す、~(境内石碑より)


寶光寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿