剱神社|横浜市青葉区荏田町の神社

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剱神社|荏田村の総鎮守、大正10年には神饌幣帛料供進社に指定

剱神社の概要

剱神社は、横浜市青葉区荏田町にある神社です。剱神社の創建年代等は不詳ながら、荏田村の総鎮守社だったといいます。大正2年宿谷戸赤城社、小黒谷戸神明社、小黒谷戸八幡社、柚木谷戸熊野社、渋沢谷戸十二社を合祀、大正10年には神饌幣帛料供進社に指定されたといいます。

剱神社
剱神社の概要
社号 剱神社
祭神 素盞鳴尊
相殿 -
境内社 -
住所 横浜市青葉区荏田町822
祭日 例大祭10月7日
備考 -



剱神社の由緒

剱神社の創建年代等は不詳ながら、荏田村の総鎮守社だったといいます。大正2年宿谷戸赤城社、小黒谷戸神明社、小黒谷戸八幡社、柚木谷戸熊野社、渋沢谷戸十二社を合祀、大正10年には神饌幣帛料供進社に指定されたといいます。

新編武蔵風土記稿による剱神社の由緒

(荏田村)
八幡社
見捨地、二十四歩、村の西字小黒田にあり、小社なり、棟札に元和の文字かすかに見え、その頃の勧請なるにや、神體は木像にて長一尺許、社の下に石二つ三つをおけり、その下に酒瓶のごときものあり。口の径六七寸ありと云、その内に矢の根を盛る、これ義家朝臣の矢根なりとも、又は荏田源三と云しものの持しなりともいへり、按に荏田源三は源義経につかへし人にて、【源平盛衰記】等の書にも、その名はみえたり、しからば此所の人なるべし、社の背後にその人の居城の跡と云あり、されば源三が矢の根なりと云ことまさしきにや、この八幡ももと源三が守護とせし像なりと云、観福寺の持なり。
赤城社
見捨地、九畝、村の西赤田谷にあり、小社にて南向なり、この所の半腹にて、松樹たちしけり、勧請の年代を傳へず、これも観福寺の持なり。
末社三峰社。社に向て右にあり。
劔社
村の中央榎木谷にあり、劔明神と號す、當所の惣鎮守なり、社傳あり、奇怪の説なれどしばらくここにのす、昔陸奥國より炭を商ふもの、鎌倉へ往来して、鍛冶のもとへかの炭を賈ること年久しければ、鍛冶もかの商人が来ること、年をへておこたらざることを謝して、己が作りたる刀一口を贈れり、商人よろこびてこれを携へ、國へかへらんとして此所をすぎ、泉谷の邊にとどまりて、路のつかれをしはしやすめんといこひしに、喉のかれたりしかば、あふれる泉を掬して呑けるに、酒に酔ひしごとく、覺へず倒れ臥したりしを、側なる松の木より大蛇ねらひよりて呑んとす、時に携へたる刀自ら抜出て、蛇を斬殺しけるにそ、かのもの危き命をたすかりしとならん、よりて劔を祀りて劔明神と號すと云々、このこと世にままつたふる話にて、いとおぼつかなきことなり、本地不動の像、今は別當観福寺に安置せり、本社に上屋を設く、五間に四間半東向なり、前に石の鳥居をたつ、又水田の間二三丁をへだてて木の鳥居あり、古はここまでも大門前のつづきなりしと云、此等にても境内の廣かりしことしらる、例祭は九月二十七日、橘樹郡平村の神職来りて祭事を行ふを定式とす。
熊野社
見捨地、四畝、村の中央にあり、小社にて東向なり、例祭年々十一月十五日、観福寺の持なり
十二社
見捨地、八畝許、村の南字澁澤谷にあり、小社なり、前に鳥居をたつ、例祭は九月十八日、是も同寺の持なり。
神明社
見捨地、八畝許、村の西西字小黒谷にあり、これも小社にて、前に鳥居をたつ、例祭は七月一日にて、かの平村の禰宜来りてその事にあづかれり。
末社御嶽社。社に向て左にあり。(新編武蔵風土記稿より)

「神奈川県神社誌」による剱神社の由緒

創建年代は不詳であるが、寛文十二年二月、文化四年に社殿の改築がなされた。大正二年十二月十日村内にあった無格社赤城神社外五社を併合し、同十年七月五日神饌幣帛料供進社に指定された。(「神奈川県神社誌」より)


剱神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 神奈川県神社誌

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿