弘仁山薬王寺。旧小机領三十三所子歳観音霊場
薬王寺の概要
真言宗豊山派寺院の薬王寺は、弘仁山衆芳院と号します。薬王寺の創建年代等は不詳ながら、王禅寺末寺の中でも著名な寺院だったといいます。俊譽(貞享元年1684年寂)が中興、明治期に火災により焼失したものの、当地へ移転・復興したといいます。旧小机領三十三所子歳観音霊場21番です。
山号 | 弘仁山 |
---|---|
院号 | 衆芳院 |
寺号 | 薬王寺 |
本尊 | 薬師如来像 |
住所 | 横浜市青葉区大場町259 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
薬王寺の縁起
薬王寺の創建年代等は不詳ながら、王禅寺末寺の中でも著名な寺院だったといいます。俊譽(貞享元年1684年寂)が中興、明治期に火災により焼失したものの、当地へ移転・復興したといいます。
新編武蔵風土記稿による薬王寺の縁起
(大場村)薬王寺
境内御朱印地、東の方丘上にあり、新義真言宗、王禅寺村王禅寺の末、弘仁山衆芳院と號す、客殿七間半に四間半巽向なり、開山は詳ならず、中興開山は俊譽貞享元年十一月五日寂す、本尊薬師坐像一尺二寸なるを安ず。
観音堂。客殿の左の方にあり、小机三十三所の一なり、堂は三間半に三間巽向なり、正観音坐像二尺ばかりなるを安せり、僧恵心の作と云傳ふ。(新編武蔵風土記稿より)
境内復興記念碑による薬王寺の縁起
薬王寺の建立年代は不明だが、王禅寺の古文書によると、有名寺院の三ヶ寺に数えられるほど立派な寺であった。
明治三十一年頃に裏山(百三番地)で薪を切っておて、昼食時に焚き火をしていて突風にあおられ火事になってしまい、本堂(百四番地)裏の山林(百三、五、六、七、八番地)を全焼してしまった。その土地は後に売却した。その後、十年余復興しなかったので、王禅寺より吸収合併の通知が白井市造氏宅に届いたので連絡したところ、寺を復興すれば合併しないと確約を得たが、元の場所は山林で管理が出来ないので現在地に建立することになった。
そこで、市造氏が自宅の間取りを基本にして木材を提供し、加工して本堂を建立した。屋根材は当時の檀家三十数軒に協力してもらい完成した。(境内復興記念碑より)
薬王寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿