源圓山浄性院。渡邊富次が当地を巡した際に再興
浄性院の概要
浄土宗寺院の浄性院は、源圓山と号します。浄性院は、渡邊富次の父源圓山が天正19年(1591)地頭として着任、渡邊富次が当地を巡した際に廃寺となっていた源圓山浄性院長安寺を浄土宗寺院として再興したといいます。
山号 | 源圓山 |
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院号 | 浄性院 |
寺号 | - |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 横浜市旭区本宿町95 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
浄性院の縁起
浄性院は、渡邊富次の父源圓山が天正19年(1591)地頭として着任、渡邊富次が当地を巡した際に廃寺となっていた源圓山浄性院長安寺を浄土宗寺院として再興したといいます。
新編武蔵風土記稿による浄性院の縁起
(二俣川村)浄性院
本宿の内中央より北によりてあり、免除地、二斗五升の地を領して、境内もその内なり、浄土宗にて、古は京都知恩院の末寺なりしが、いつの比か、相州鎌倉光明寺に屬せり、源圓山と號す、起立の来由を尋ぬるに、昔此所の地頭渡邊富次が、この地を巡行せしとき、長安寺といへる廢寺ありしにより、そのあとへつきて再興し、あらためて浄性院と號せり、長安寺のことは、宗旨及び開闢のことに至るまで都て傳はらず、富次が父孫三郎勝、天正十九年當所を賜はりしと云ときは、再興の年代も推してしるべし、本堂七間に六間東向なり、本尊彌陀、木の坐像長二尺八寸ばかり、惠心の作なりと云、開山の僧はその名をつたへず。
鍾樓。本堂に向て左にあり、七尺四方、鐘は天明八年に造りしものなり。
地蔵堂。本堂の東なる丘の下にあり、三間半四方、地蔵は木の立像にて長二尺五寸ばかり、この堂を長安寺と號するは、もとの廢寺の號を存するなりと云、おもふにこの地蔵は、昔の本尊などにてやありけん。(新編武蔵風土記稿より)
浄性院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿